耳をふさぎたくなる夫の言葉


「幸いにもステージはとても早かったけれど、乳がんと診断を受けました。その時子どもは小学生と幼稚園児、未就園児。絶対に、絶対に私がいなくなるわけにはいかない。東京には短大からだったので、いいお医者さんも病院もまったくわからず、1人で夜中にPCで必死に調べました。夫はぽかんとした様子で、ことの重大さがわかっていませんでした。手術はなんとかうまくいきましたが、放射線やホルモン治療もあるし、その後はもう……思い出したくないほど」

気丈な亜弥さんが、このときばかりは目を潤ませました。頼りにならない夫のところに、まだ小さな3人を残していくわけにはいかないというプレッシャーの大きさが伝わってきます。

このように大きな困難に面したとき、家族というチームが機能することを期待して結婚する側面もありますが、亜弥さんの家庭はそうではありませんでした。夫は亜弥さんの病気以降も、ライフスタイルを変えることもなかったと言います。

「放射線を照射した日は、私の場合は体がだるく、起き上がれないことも。そんな時も彼は一切家事をすることもなく、ゲーム三昧。PCの履歴には性的な動画が増えて、きっと私が相手をできなくて欲求不満だったんだと思います。そして、小心者なのか、とにかく重い病気の事実を直視できないようでした。『俺、ガンとか辛気臭くて苦手だわ』、などと言って医者の説明からも逃げていました。

私の体調が一番ひどかった1カ月は、あまり体が丈夫ではない母が札幌から来て、子どもの面倒を見てくれました。でも高齢の母に、3人の子どものお世話や家事はあまりにも負担でした。そんな母の献身に、元夫は一切感謝することもありません。最後の日、『それじゃ、お義母さん、また孫に会いたかったら泊めてあげますからね』と言い放ったんです。母は弱々しくほほ笑んで、札幌に帰っていきました」

 

このことがきっかけで、我慢が臨界点に達したという亜弥さん。1年後、大きな治療が一旦終了した段階で、一番下の子を保育園に入れて高級介護ホームの受付兼事務のパートを始めました。これが初めて離婚という選択肢を意識しての行動だったといいます。

 

「企業受付の仕事しか経験のない私が、10年近いブランクがあってもできる短時間の仕事はなかなか見つかりませんでした。それでも経済的に少しでも自立することからしか始まらないと思いました」

夫にパートに出たいと伝えると、「俺は頼んでないぞ。お前が好きで働くんだから家事育児をおろそかにして迷惑かけるなよ」と言ったそうです。しかし、東京での家族5人の生活費は、教育費を考えると普通の会社員のお給料では心もとないことは想像に難くありません。亜弥さんが働くことは、本来歓迎すべきことのはず。元夫の言葉は、自分が不便になる、家事の負担が増える、ということに囚われて、家族全体の幸せを度外視しているようにも聞こえました。

この時、亜弥さんの時給は1200円。1日5時間、週3日からの第一歩でした。そしてこの3年後、亜弥さんは、「離婚してほしい」と切り出すことになります。

後編では、大変な生活でも前向きな姿勢を保っていた亜弥さんに離婚を決意させた「事件」と、離婚の顛末、そして子ども3人を抱えた生活のリアルを伺います。


取材・文/佐野倫子
構成/山本理沙

 

 

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