誰の手本にもならない。でも、愛おしくて尊い人たち


みはるは出家して、篤郎との男女の関係は終わりを迎えますが、3人の関係はその後も続きます。作品のモデルになった作家・井上光晴さんと妻が眠るのは、岩手県にある天台寺。この場所を提案したのは、当時、同寺の住職だった瀬戸内寂聴さんで、今年9月には瀬戸内さんの遺骨もここに分骨されました。こうしたことからも、3人の関係性は、当人にしかわからない縁(えにし)でつながっていたのかもしれません。

 

広末:笙子とみはるは、身内のような同志のような関係。他の人には分からない超越したものが2人の間にはあったと思います。最初に団地で対面した時や、自分の出産時に夫がみはるのところにいた時は、最終的なゴールは微塵も想像できず、複雑な心境だったと思いますが、最後にはこのような関係になり、特別な3人だったんだろうと思いました。

 

妻と愛人、浮気をする夫という3人の関係性は、世間一般の常識といわれているものに照らし合わせれば、許され難いものかもしれません。しかし、当事者でなければわからないことはあるはずです。この作品を観ると、そのことを深く考えさせられます。

寺島:この物語は、こういう人たちがいて、こんな愛の形がありました、というものであって、推奨しているわけでもなく、誰の手本にもならないと思います。でも、自分でこの映画を見た時に、自分の人生でいろんな人と出会い、関わり、別れていく中で、憎むようなことがあったとしても、全部ひっくるめて愛おしくて、尊いことなんだということを感じました。

 

綺麗事ばかりじゃないし、この野郎! と思ってもそれを通り越して運命共同体みたいになる場合もあるわけで。この3人は、3人だけの鬼ごっこのルールで成り立っていたと思うんです。そうじゃなかったら同じ墓地に3人が入るなんてことは考えられないですよね。最近は、この3人のように人とがっつり関わっていくことが少なくなっているし、避けられているからこそ、この映画は新鮮に見ていただけるのではないかと思っています。

広末:私は男の人は浮気するものだ、違う生き物だと思っていました。だから、笙子のことも理解できる部分がありました。この作品の登場人物たちは実在した人をモデルにしているけれど、あくまでフィクション。自分がどの立場だったらどう思うか、どう感じるかを楽しめるのはフィクションならではの良さだと思います。私はこの映画を見ている時に、本を読んでいるような不思議な感覚になりました。感情を持っていかれて、ドキドキするし、涙も出る。ぜひみなさんにもそんな気持ちを感じてもらいたいと思っています。

 

寺島:広末さんは試写で作品を見た時、号泣してましたよね。自分が出ているのに、客観的に観ることができていてすごいと思いました。私は自分の粗ばかり目について、ぜんぜん内容が頭に入ってきませんでした。