どうにかするべきなのは、感動という快楽を求める心なのではないか


あなたは自分の子どもや大事な友だちにも「感動をありがとう」「感動をもらった」と言うでしょうか。言う人もいるかもしれませんね。運動会の組体操で巨大な人間ピラミッドなどの事故の危険性が指摘されても、「感動するから」と存続を希望する保護者がいると聞きます。運動会は子供が大人を感動させるためにやるものではないし、大技なんかやらずとも、ただグラウンドに立っているのを見るだけで、我が子の成長がしみじみと嬉しいものではないでしょうか。もし、普通の運動会ではつまらないとか感動が薄いと思うなら、それは自分の心の痩せ衰えをどうにかするべき問題で、子供を危険に晒してまで、見せ物を充実させよというのは筋違いでしょう。

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友だちが精一杯演奏したバンドのステージに思わず涙した時は、どうでしょう。「感動をありがとう」ではなく「素晴らしい演奏だったね」と言いたくなるのではないでしょうか。「めちゃくちゃ感動したよーすごくよかったよー」ならわかります。けど「すっごい感動をもらえたよ」はやはり、言われた側からすると“食べられた感じ”があるんじゃないでしょうか。

 

「感動した」という言い方は、自然発生的で自身で制御できない心の動きを表しており、相手の素晴らしい演奏によって心が揺り動かされ、胸打たれたことを告げています。一方、「感動をもらった」は相手の演奏によって感動という快楽を得ることができた、その快楽の方に重きを置いた物言いであるように思います。

感動は勝手に湧き上がってしまうもので、快不快でいえば快、そして感謝を伴うことがあります。それが「感動をありがとう」という言葉に変換されるのかもしれません。でも、正確には「あなたのおかげで生きていることは素晴らしいと思えました、ありがとう」「あなたのおかげで、日常を忘れてひととき夢中になることができました。ありがとう」などではないかと思います。誰かが「感動をありがとう!」という言い方を思いついて、今や多くの人が使う決まり文句になっているのは、おそらく、その言い方の方が感動するからでしょう。人は「感動をありがとう!」という言葉に感動しているのではないか。感動したくて言っているのではないかとも思われます。