心は誰の自由にもならないもの。自身でさえどうにもできない。


感動は心が動くこと。感動させたい、は誰かの心を動かしたい。感動したい、は誰かに心を動かされたい。でも心は誰の自由にもならないものです。自身でさえどうにもできない。動いてしまうのです。それがなぜ動くのかは、本人にもわからない。「感動を食べに行く」態度は、そういうことをわからずに他人の心を消費しよう、所有しようという態度です。心は意のままにやりとりできるものだと思っているところが、どこか的外れな印象を与えるのでしょう。

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心は勝手に動いてしまうものなのに、なぜ、多くの人の胸を打つ言葉や姿があるのでしょうか。それはおそらく、無心だからじゃないかと思います。ただそうするほかない、そうしないではいられない人の姿は、無心に生きる尊さを表しています。それに触れたときに、人は「ああ生きることは素晴らしいことだ、自分の命もあの尊いものの一部なのではないだろうか」と思うことができます。だから感謝の意が生まれ、発見の喜びや、幸福を感じるのだと思います。

 

ただ素直に感動すればいいものを、細かい理屈を並べて鬱陶しいやつだと思った人もいるでしょうね(そういう人はもう読むのをやめているはず)。「感動をもらいました!」「感動をありがとう!」を違う言い方にすると、どうなるかな。なにかと“感動もの”が多くなるシーズンに、ちょっとそんなことを考えてみるのも面白いのではないかなと思います。
 

 


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