「戦争が始まったら」を議論する政府。「戦争を始めないために」を考えたい私たち


国防について考えるときには、なぜか誰しも為政者の視点で考えがちです。「いやー、周辺国の脅威を考えたら日本だって自前で戦争できる体制を整えておくことは必要だ」と話しているそのとき、「誰が戦地に行くのか」まで考えているでしょうか。自分が戦地に立つかもしれない、あるいは自分の家族が召集されるかもしれないと想像しているでしょうか。ウクライナでは、男性は国に残って戦うことを求められています。それを外から「勇気ある行動だ」と安易に称えるのは危うい心理でしょう。実際、戦いたくないと外国に逃れることを模索する若者もいると報じられています。

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年の瀬にかけて、先の大戦での日本軍部首脳の無謀さと人命軽視の実態を詳細に報じたドキュメンタリー番組が次々と再放送されています。日本で戦争が語られるときには「敵がいかに酷かったか」よりも「軍部がいかに無能、無慈悲であったか」という視点で語られることが圧倒的に多いように思います。戦後の占領を経た米国頼みの安全保障体制のもとで、戦勝国を責める文脈が封じられてきた面もあるでしょう。戦地で亡くなった人の死因のおよそ6割は餓死であったとも言われています。食糧補給の目処もないまま兵士を見殺しにするような無謀な作戦が各地で行われました。住民の4人に1人が亡くなった沖縄地上戦では、多くの住民が戦闘員として駆り出され、日本兵が住民を死に追いやったという証言も多数あります。軍部が日本の人々の命を軽視し、視野狭窄で場当たり的な判断を繰り返したことにより、310万人余りもの命が失われ、米国による苛烈な空爆で国が焦土と化しました。しかしこれだけ繰り返し軍部の非情さと無能さが報じられてきたにもかかわらず、なぜいま政府が国民に信を問わずして拙速に重要な決定をしようとするのをよしとするのか。数々の戦争のドキュメンタリー作品は、単に無能な上司や理不尽な会社組織への鬱憤を抱えた人々の感情の吐口になっただけで終わってしまったのでしょうか。もはや数少なくなった戦争経験者たちの貴重な証言は、二度と戦争をしないでほしいという痛切な思いを伝えるものであったはずなのに。

 

防衛費を賄う増税への世論の反発は大きく、岸田政権の支持率は低下しています。長年賃金が上がらず国民の暮らしが苦しくなっている上にインフレが襲い、「国民の命を守る」のならまずは安心して生活できる施策をと、憤りを感じている人も多いでしょう。であれば同時に「敵基地反撃能力の保有」についてもよく考えてみましょう。それは本当に、人々の命を守ることになるのか。敵基地反撃能力保有の賛否は、戦争抑止力保有の賛否ではありません。もう敵が攻撃を仕掛けてこようという段になったときに、敵基地を叩く戦力を持つかどうかという問いです。つまり「戦争を始めないようにするための工夫」ではなく、「実際に戦争が始まってしまったときにどうするか」を問われているのです。ここは決して見誤ってはなりません。

話が深刻すぎる、考えすぎだと思う人はどうか想像してください。去年の今頃、ウクライナの人々はいつも通りにクリスマスを祝っていました。3ヵ月後に首都が焦土と化すなんて思いもせずにいたのです。長年、ロシアの脅威にさらされ続けていた国でも、なお戦争は遠かった。それはテレビドラマのように、不穏なBGMとともに次第に姿を現すのではありません。まさかと思うような日常の風景の中に、いきなり現れる。私たちはいまその「まさか」の只中にあるのかもしれません。年越しの穏やかな家族との時間、そんな視点でみんなの笑顔を眺めてみましょう。今年も良い年でありますようにと手を合わせるときに、思い出してみましょう。それが、草の根から平和を考えるということです。大切な人に死んでほしくない、無惨に殺されたくない、という多くの人々の強い思いを平時に示さなければ、「戦地に行って死んでこい」と命じる権力者の専横を押しとどめることはできません。

 


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