枯れて朽ちることでしか味わえない「何か」を知るために


きっと私は長年、「きれいに咲いている時期がいちばんいい」という価値観で生きてきたのだと思います。どうしたら「私」という花を美しく咲かせることができるだろう? と考えるのが楽しかったし、肥料や水をやり、よりよく咲くようにと育てることが、いちばんの関心事でした。

ソファにノートパソコンを運び、ひとり映画鑑賞を楽しむ。誰かと一緒にではなく、「私しか知らない時間」を足し算して過ごすことも、人生後半の楽しみのひとつかも? と一田さん。(『人生後半、上手にくだる』P110より)

でも、第一線を退いた後に、孫たちに囲まれてご飯を食べる時間や、以前は忙しくてバタバタと過ごしていたのに、ひとりでじっくり1冊の本と向き合う時間は、今までとは違う喜びを教えてくれるのかもしれません。

美しく花を咲かせたその後に、いったいどんな「お楽しみ」がつながっているのだろう? 枯れて朽ちることでしか味わえない何かとは、いったい何なのだろう? それを知るためには、考え方や感じ方を、新たな世界に合わせて、ひとつ「ずらす」必要があります。今までと同じメモリでは測ることができない世界では、新たな「単位」を知らなくてはいけません。

 

北欧の家具、作家さんが作った器、上質な素材でいいパターンで作られた洋服……。よりよいものと過ごす日常は、生活のクオリティを上げてくれます。一方でヘンリー・デイヴィッド・ソローは、『孤独の愉しみ方 森の生活者ソローの叡智』(イースト・プレス)の中で「破れた服を着たって、何一つ失うものはない」と綴っています。

「花を咲かせること」だけが人生ではない、と教えてくれる一田さんの言葉と写真。(『人生後半、上手にくだる』P58より)

持たなくても幸せになれる。もっともっと稼がなくても豊かに暮らすことができる。やりがいのある仕事をしていない時間も、楽しく過ごすことができる……。人生の後半に差し掛かった今は、物事の考え方を、今までとはまったく違う方向へ、舵を切るチャンスなのかも。

そのためにも、今まで正解と信じ込んできたあれこれを一旦手放し、新たなメガネにかけかえて世の中を見てみたい。そう思うようになりました。