受け取る側の誤解だ=発言者は間違ってない、という傲慢な態度の恐ろしさ


これまでセクハラでも女性蔑視発言でも、同じような弁明が繰り返されてきました。差別や暴力を、“受け取る側の気持ちの問題”に矮小化するもの言いです。発言者は間違っていないけど、あなた方が発言の意味を正しく理解できずに不愉快な気持ちになったならまあ、お気持ちを慰めるために謝りますよという傲慢な態度ですね。

では、今回更迭された荒井氏の発言とは、どんなものだったのか。

荒井総理大臣秘書官は3日夜、総理大臣官邸で、記者団から同性婚への見解を問われたのに対し「マイナスだ。秘書官もみんな反対している。僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいたらやっぱり嫌だ」と述べました。

また「もちろん人権や価値観は尊重するが、心の底では嫌だ。同性婚を認めたら、国を捨てる人が出てくる」と発言しました。

このあと荒井秘書官は、改めて記者団の取材に応じ「差別的なことを思っていると捉えられたとしたら撤回する」と発言を撤回したうえで「大変、申し訳ない」と謝罪しました。(2月4日 NHK)

誤解のしようがないでしょう。「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでたらやっぱり嫌だ」は、同性カップルに対する嫌悪感を露骨に表しています。“差別的なことを思ってい”ないと出てこない言葉です。
「もちろん人権や価値観は尊重するが、心の底では嫌だ」という発言もひどい。人権は、相手に対して好感を持っているかそうでないかに関わらず、尊重しなくてはならないものです。友達でなくても、家族でなくても、何一つ自分と共通点がない人でも、その命と尊厳は自分の命と尊厳と同様に等しく大切にされなければならないという基本的な認識に立つことが、人権を尊重するということです。

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政権中枢の人物が報道陣を前にして「人の命は大事だけど、あいつは嫌い」とあなたを指差したら、どうですか。身の危険を感じるでしょう。あいつはいじめても構わないというルールができるかもしれない、あの言葉を聞いた誰かが自分に危害を加えにくるかもしれない、殺されそうになっても誰も助けてくれないかもしれないと恐ろしくなるでしょう。あれは、そういう発言なのです。

 

荒井氏は性的少数者を直接に名指ししたのですから、それがどれほど深刻なことか分かりますよね。差別そのものであり、暴力を助長しかねない発言です。

首相は荒井氏を更迭しました。しかしその発言が差別であったとは明確に認めていません。党内からは「(性的少数者に対する)差別の禁止や法的な措置を強化すると、社会が分断される」と懸念する声が上がっています。
一体どんな分断を心配しているのでしょうか。性的少数者の人権を尊重することは、他の人の人権を軽んじることにはなりません。むしろ、どんな人の人権も等しく尊重されるということがより明確に示されるだけです。では、性的少数者が差別されない社会では、誰が排除されるのか。差別をする人です。差別禁止法は差別をする余地を残しておきたい人にとって不都合であるということを、如実に示す発言です。更迭された荒井氏の発言も、「心の底では嫌い」な人たち(性的少数者)には他の人たちと同じ権利(婚姻の平等)を認めない、つまり嫌いな人の人権は制限されても仕方がないというものでした。

これは他人事ではありません。あなたが性的少数者でなくても、いつ自分が「嫌いなあいつ」になるかわかりませんから。為政者に好かれているか嫌われているかで人の価値が決められてしまうような国には、誰も住みたくないでしょう。
その時々のまつりごとに左右されず、いつでも人の命と尊厳は全て等しくかけがえのないものとして扱われなければならない、なんぴともそれを侵害することはできないのです。