ニーチェに思う、「正常な認知」とは何か?

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――父と息子の介護ではどうしてもぶつかりがちなイメージがあるのですが、介護中に喧嘩することはなかったですか……?

髙橋 当然、苛立つことはありました。認知症の症状の一つに見当識(けんとうしき)障害といって、日付や場所、今自分がどこにいるかを認識する能力に不具合が起こるんですが、おやじの場合も「ここはどこ?」と聞くと、「どこ?」と問い返す。「ここ」と答えると、「ここってどこだ?」みたいに逆質問されるんです。地名や場所を聞いているのに、見当違いの答えしか返ってこない。でも待てよと。

よく考えたら“「ここ」とは何か”という哲学的な問いかけなんじゃないか? と、ふと思ったんですね。「今、季節は何ですか?」と尋ねれば、おやじは「それは別にどうってことないです」と答える。季節はある日を境に急に変わるわけでもなく非常に曖昧だったりするので、「別にどうってことないです」も一理あるわけです。そんなことを考えていると、苛立ちも徐々になくなっていったんですよね。

――『おやじはニーチェ』ではお父様の言葉一つひとつに哲学的な考察をされていますよね。実はこうも捉えられるのでは? と。

髙橋 認知症って「正常な認知」があるという前提での認知障害ですよね。じゃあ「正常な認知とは?」と疑問に思ったんです。例えば、認知機能をチェックするためにコップを持って、「これは何?」と質問しますよね。おやじはそれに対して「へぇー」とか言うんです。「へぇー、じゃなくて、これは何ですか?」と問い詰めると、「ほおー」とか感心したりする。認知障害、あるいは認知機能の低下ともいえるんですが、そういえば私も「これは何?」とよく聞かれるな、と思いまして。

リビングに脱ぎ捨てた靴下を妻が発見して「これは何?」と聞かれた時、私が「何って靴下でしょ」と答えたら、これは明らかに喧嘩を売っているわけです(笑)。この場合の正解は「どうもすみません」でしょう。つまり、物体の名称を問われているわけではなく、質問行為自体に対して私たちは反応するんです。そう考えると、「正常な認知」とされていることは実は約束事にすぎない。それはとても狭義な認知で、おやじが「別にどうってことないです」と答えるのも、一つの認知のあり方。バリエーションの一つなんじゃないかと思えてきたんです。

 

「親孝行してる俺」の暴走


――書籍でも引用されていた「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」というニーチェの言葉への理解が深まった気がします……。

髙橋 フリードリッヒ・ニーチェは力関係に敏感な人物だったんですが、その点も認知症になったおやじと共通しているんですよ。誰が自分を守ってくれる人か、誰が敵か。そうしたことを動物的に感じ取るんですね。おやじにとって一番の存在は、私の妻。最後は自分のことを助けてくれる人だというのがわかるみたいで、妻の言うことはよくきくんです。私自身も身の回りのケアをしているけれど、「こいつはあんまり当てにならん」ということもわかっている。

――どういうところで判断されているんでしょうね?

髙橋 25年前、妻の両親を介護していた時、義父が「白菜の漬物が食べたい」って言うもんで、私は白菜を1玉買って、天日干しして、ホームセンターで漬物器を買って、レシピ本を見ながら作ってみたことがあったんです。毎日、白菜の様子を観察したりして。「なんて親孝行なんだろう、俺」とか自分に感動したりして。涙をぬぐいながら白菜に塩をふっていたら、妻に「他にもやることあるでしょ?」と怒られました。全員とは言いませんが、男は得てして自分ができることだけに集中する傾向があって、全体の労力の配分ができない。そんな特徴があると思うんです。ひとりよがりというか。そういうことをおやじも見抜いていたんでしょう。

――「自分ができることだけに集中する」夫への不満は、普段の家事分担でも話題になることがありますね……。

髙橋 おやじの散歩についていくとね、近所の人には「親孝行な息子さんね〜」とかなんとか言われちゃうんですよ。それで漠然と達成感を感じてしまう。でも、妻からすれば「いい加減にして!」ですよね。生活のために仕事するのが私の主な役割で、実際に原稿の締め切りも迫っている。それなのに1日に8回も散歩に同行するなんて、私の自己満足だと。ごもっともですよね。その点、女性は今何が必要なのか、やるべきことは何か客観的に優先順位を決めて、段取りをつけていく。私のような「親孝行してる俺」の暴走が、介護を巡る夫婦間の揉め事の大きな問題点だなと痛感しました。