家臣や領民の「信長疲れ」「秀吉疲れ」を見破った家康

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なぜ家康は天下人として三百年近く続く体制の礎を築き、信長は志半ばで倒れたのか。これは家康が信長から何を学んだのか、という問いに重なります。

家康は、信長に従うなかで、多くの術を受け取ったと思います。中央=天下への入り込み方、自分にとって役に立つかどうかで判断する徹底的な合理性、火縄銃や大砲、南蛮の火薬に代表される新しい文物、技術への旺盛な興味、実力主義の組織運用術などです。

 

しかし、家康の凄さは、信長の失敗、ダメな点を学んだところにあります。一言でいえば、世の「信長疲れ」を見破ったのです。

さらに、豊臣秀吉も信長以上に家臣・領民の「秀吉疲れ」を巻き起こす存在でした。信長も秀吉も傑出した天才児で、自分のヴィジョンの現実化に躊躇がありません。そのため、家来や領民に負担を強い、どこまでも踏み込んでくるのです。家康はこの二人の天才児の下で苦労させられ、「あんなふうにやっては長続きしない」と肝に銘じたのでしょう。

他人の内面にまで踏み込み、神仏に対するような帰依(きえ)を求め、無理を強いる。これが信長のやり方でした。

信長の下に仕える者は、どこかで「信長疲れ」を起こしてしまいます。その「信長疲れ」の総決算ともいえるのが、明智光秀の起こした本能寺の変だったといえます。