「今にしか生きていない」ことのメリットとは?

 

認知症の高齢者がいかに気楽で安楽か、私が経験した例をご紹介しましょう。

 


Iさん(90歳・女性)は、車椅子でデイケアを利用していましたが、見た目はふつうながら重度の認知症でした。家では大事にされているようで、家族から「おばあちゃま」と呼ばれていたので、デイケアの職員たちも同じように呼んでいました。「おばあちゃま」に話しかけると、「あら、そう」とか、「何かしらね」と、標準語のアクセントで、いかにも上流家庭という雰囲気の受け答えをします。

デイケアにはときどきボランティアの演芸会があり、踊りの専門家が来てくれたことがありました。高齢者が喜びそうな日本舞踊で、着物姿の師匠が優雅な舞を披露してくれました。Iさんも盛んに拍手を送っていたので、出し物が終わったあと、私はIさんのところに行って、「ずいぶん熱心にご覧になっていましたね。よかったですか」と聞きました。

するとIさんは、「何が?」と聞いたのです。

「いや、今の踊りですよ」
「あら、踊りなんてなかったですよ」

それを聞いた同じテーブルの利用者さんが、ぎょっとした顔でIさんを見ました。私も驚いて、「今、やってたじゃないですか」と言うと、Iさんは平気な顔でこう返してきました。

「あら、そう。わたしは見なかったわ。残念なことをしたわね」

たった今見たものを、きれいさっぱり忘れてしまう。その鮮やかさには、ある意味、感心させられました。認知症の人が今にしか生きていないといわれる所以です。これなら過去を悔いることも、いやな記憶にムカつくことも、まだ起こっていない心配事に頭を悩ませることもありません。