認知症が進み、病気と死への恐怖から解放

 

もう一人、在宅医療で診ていたHさん(89歳・男性)は、診察をはじめた当初は頭がはっきりしていましたが、そのせいか死ぬのが怖くて仕方のない人でした。風邪を引いたら肺炎を心配し、動悸がすると心不全を疑い、手足がしびれると脳卒中の発作を恐れて、あれこれと薬を求めました。

 


その彼が脳梗塞で倒れ、幸い手足の麻痺はなかったのですが、脳血管性の認知症が急速に進んでしまいました。すると、病気の心配をいっさいしなくなったのです。もちろん、死の恐怖も口にしません。死という概念が消え去ってしまったようでした。家で介護ができなくなり、施設に移ったのですが、診察に行くと廊下に立ってハーモニカを耳に当て、だれかと電話をしているように何かをつぶやいていました。

「診察に来ましたよ」と挨拶をすると、「ありがとう」とにこやかに答えます。昨日のことも明日のことも念頭にはありませんが、“今”の会話は成り立つのです。

病気と死を恐れていたときには、不機嫌で不安そうだったのが、認知症になったあとは悟りを開いたように穏やかな表情になりました。Hさんにとってどちらが好ましいか、明らかでしょう。

いつまでも明晰だと、老いのつらさ、惨めさが如実に意識され、不快な過去と不安な未来に苦しめられるのに対し、認知症になるといっさいが消えて、“今”だけの存在になるのです。