衆議院選挙が終わり、裏金議員がそれなりに落選したことに、それなりにホッとしている私です。
まあ「ええ! なんでなの八王子!」みたいな選挙区もありますが、それはそれとして。これだけ今までと違う勢力図になれば、「検討をさらに加速させる」とか「議論の準備を開始する」とか「永遠に来ない蕎麦屋の出前の言い訳ですか?」的に棚上げされてきた象徴的なイシュー、選択的夫婦別姓なんかが動き始めることも期待できそうです。
そもそも「選択的夫婦別姓」に反対する人の理屈って、私にはさっぱり理解ができません。
「選択的」の意味は「すべての夫婦は、強制的に別姓!」じゃなく「別姓にしたい夫婦だけ、別姓も選んでOKですよ」ってこと。
おそらく巷の「賛成派」はみんながみんな「法律で許可されたら別姓にするぜ!」という人ではなく、「別姓でないと困ることが多い人には、そっちも選べるようにしてあげれば?(っていうか他人の夫婦が同姓だろうと別姓だろうとどっちでもいい)」という人も結構いるに違いありません。
反対派の政治家などが言う「反対の理由」、例えば「伝統的家族観が失われる!」は、夫婦同姓はたかだか明治時代からのもの(江戸時代の庶民は公的に名字を名乗れなかった)なのに「伝統的」と言えるのか?って話だし、「名字が違うと家族の一体感が弱まる!」だって「名字が同じだけど一家離散の家族もいるんで」という反論で簡単に崩れてしまいます。
「なるほど、そういうことなら仕方ない」ってな具合の腹落ちが、まったくもってありません。
うーん、うーん、なんで、なんで、なんで? と考えて、はたと思い至ったのは、「選択的夫婦別姓」は現制度で「姓を変えるのが当然」を飲み込んできた妻にとって、実質的な拒否権だからじゃないかってこと。
「選択的夫婦別姓」は、結婚する際の「あらゆる夫婦の選択権」のように見えますが、実際のところは改姓における「あらゆる個人の選択権」です。
これまでは結婚したら「強制的に同姓(半ば強制的に夫の姓)」だったわけですが、別姓が選択できるようになれば「どちらの姓を選ぶか」の余地がでてきてしまいます。
仕事で不便、女性側の家名だって守りたいとかもありますけど、例えば、結婚したら夫の姓になるつもりだった「加勢真理さん」だって、相手が「水田仁さん」だったばっかりに「“みずたまり”とか勘弁なんで『加勢』のままでいたいんですけど」みたいな展開もありえましょう。もちろん「水田仁さん」がどうしても同姓を望むなら「加勢さん」に改姓する権利もあるし、「“かせいじん”とか勘弁なんで、『水田』のままでいたいです」も可能。めちゃイーブンです。
つまるところ選択的夫婦別姓の反対派は、そういう男女イーブンな権利を「(主に)女性が手に入れること」を嫌がっている、とも言えそうです。
でもここでさらに、なんでなんでなんで? と思うことは、どう考えても女性の多様な生き方を肯定し、より生きやすくなるための選択肢を用意する方策に、なぜか猛烈に反対する女性議員がいることです。
強制じゃなくて選択的だし、むしろ個人に対して何かしらの強制をしてるのはあなたがたなんで! と言いたくなります。さらにさらに気になるのは、例えば国会でのヤジなど、彼女たちが同じ考えの男性議員に比べてより過激な、時に劇場型ともいうべき主張の仕方をすることです。男社会の中でああでもしないと存在をかき消されちゃうんだろうな……と思うのは、同じ女性でも「二世議員」とか「元官僚」みたいな政界で有用な肩書を持つ人でこのやり方をとる人があんまりいないから。そういう弱みをわかっている男たちに、男なら女性差別と言われそうな本音を言わせる「鉄砲玉」として、愚かにも利用されてるんだなあーーと、まあそんな風に、私は考えていたわけですが。
今月は上野千鶴子さんの『こんな世の中に誰がした?~ごめんなさいと言わなくてもすむ社会を手渡すために〜』を読んでいるんですが、東大卒のあるエリート女性が「得意なことは?」と聞かれて「人の期待に応えること」と答えたというエピソードを、非常に興味深く読みました。
一定のシステムの中で「優秀であること」を褒められながら生きてきた人は、「褒められる」をアイデンティティとし目的化してしまうがゆえに、「褒められる」ためになんでもやってしまう。
私もこれまであらゆる人に結構な数のインタビューをしてきたので実感としてわかりますが、特に女性において「今後の野望/目標は?」と質問した時に、「これがやりたい」「こうなりたい」よりも「誰かを喜ばせたい」「誰かに必要とされたい」という答えが返ってくることが多いし、彼女たちは「求められればなんでもやる」という点で求められていると感じることもしばしばです。
もちろん若いうちならば、それが「自分では思いもしなかった才能の開花」につながることもあるでしょう。でもそのまま40代、50代になった女性においては、それが「闇落ち」のきっかけにもなりかねません。
引き立ててくれる男社会の要請のままに鉄砲玉になり、価値がなくなれば使い捨てにされることがわかっているから、どんどん男社会の求めに応じて過激化していく。
もしかしたらそうやって頂点に登っていく人もいるかもしれませんが、私個人としてはこれっぽっちも「素敵」とか「羨ましい」とか思えない。ただ、「ああはなりたくない」とは思いつつ、なんだか少し哀れに思えてなりません。
前回記事「【自発的シングルマザー】韓国の藤田小百合さんの生き方から考える「子どもを産むか産まないか」その権利は誰のもの?」はこちら>>
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