エッセイスト・小島慶子さんが夫婦関係のあやを綴ります。
40歳を過ぎてから、発達障害の一つであるADHD(注意欠如多動症)と診断された。もともと人体の仕組み好きなので、自分の脳みその特性が少しわかって、なるほどなと思った。どうも幼少期から困り事が多かったが、もしかしたらADHDも理由の一つだったのかもしれない。そしてそれらの困りごとは現在も継続している。
夫は私がADHDと診断されたのを機に、色々と発達障害の本を読んで詳しくなった。特段驚いた様子はなかった。自分の妻が風変わりで苦手なことが多いのは分かっていたので、それに診断名がついたところで意外性はなかったようだ。むしろ理解が深まった面もあるだろう。夫はどうやら私のことが好きなようだが、理由は「面白いから」という。その「面白い」には「楽しくて面白い」も「困ったものだが面白い」も含まれるようだ。私としてはそれで助かっている一方で、夫の呑気さに苛立つこともある。あんたの妻は脳みその特性で苦労しているんだぞ、大変なんだぞ、見ても分かりにくいけど分かれ!とリマインドすることもある。
私の周囲からは魔法のように物が消える。さっき目の前にあった物がもうない。そして次に見るとすでに探したはずの場所に出現している。通りすがりの棚の上に意外な物が置いてあることもある。引き出しが開いたままのこともある。その瞬間、そうだったとやりかけのことを思い出す。ルンバというお掃除マシーンがいるが、動きが私そっくりである。出鱈目に動き回っているように見えるのに最終的には部屋がきれいになっている。私も「なぜここにこれが?!」などと驚きつつ、最終的には全てのタスクをコンプリートする。ただ時間がかかる。消えた物を発見しやすいように、部屋はいつも整理整頓を徹底している。潔癖症気味のせいもある。
それにしても、人が一人生きているだけでもこんなにもゴミや埃が湧いて出るのかと思う。絶え間なく髪の毛が抜け落ちるし半日も経つと紙屑や食べかすが溜まる。洗濯物も溜まる。おかげで「生きるとは散らかしては片付け、散らかしては片付けることの繰り返しである」という悟りを得ることができた。お坊さんが修行で掃除を徹底的にやるのもわかる気がする。体を動かしてものをきれいにしていると、どれほど小難しいことを考えようと、自分は所詮は代謝と排泄を繰り返して周囲を汚して滅んでいくなまものに過ぎないと身に染みてわかるものだ。
ところでなぜやっていることを途中で放置するかというと、何かを思いつくとそちらに注意が向いてしまい、それまでやっていたことを忘れてしまうからである。思いついた時にやってしまわないと忘れてしまう! という強い不安がある。短期記憶が苦手で、よほど集中していないとすぐに記憶が勝手に書き変わるか、他の情報で上書きされてしまう。局アナをしていた時もカンペや台本に書いてあるたった1行の決められたコメントがどうしてもその通りに言えなかった。でも台本にないことなら無限に喋れる。今は、この特性がとても仕事の役に立っている。
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