慶子さん、かわいそうにね。自分を憐れみながら、今日も消えたものを探す
どれほどリマインダーをセットしていてもスケジュールの勘違いはしょっちゅうで、毎日が綱渡りである。いつもいろんなものの期限がドミノ倒しのように追いかけてきて、走っても追いつかれて下敷きになる。つまり期限に間に合わない。私の周りでは時間の流れ方がおかしい。これも魔法としか思えない。原稿を書き始めて2時間経ったと思ったら7時間経っていることもあるし、時計を見て出発時間まで15分あるなと思って30秒後ぐらいにまた見るとすでに予定の時刻を10分過ぎていたりする。月曜だなと思うともう金曜で、月が変わったなと思うともう20日を過ぎている。
何かを正確に記憶していつでも取り出せるようにするのも難しい。あらゆる情報は外から脳に入った途端に溶けて勝手に書き変わってしまう。私の脳液は強力な消化液らしい。頭に入ってきたものは瞬く間に分解され、別の物質に形を変えてしまうのだ。だから本を読んでも中身を思い出せない。書いてあったものは血肉化されて身になるのだが、元の姿は消えてしまう。「あの人のこの本にこんなことが書いてある」とすらすら引用できる人を心底尊敬する。人名も人の顔もなかなか覚えられない。先日もイベントでゲストのお名前を間違えた。最初は覚えていたのに途中から急にわからなくなった。そういうことがよく起きる。
事務事務しいことは全て苦手で、書類の記入は必ず間違える。何かの申し込みはたいてい書き直せとつっかえされる。最悪なのはエクセルで、セルを開いて中身を読んで次のセルに移ると前のセルの中身を忘れてしまうので、多数のセルに情報が書き込んである書類の場合は全てを読み終えて必要事項を記入し終えるのに3日ぐらいかかる。エクセルって見づらいし使いにくいし印刷する時クソめんどくさいからPDFとかWordにしてくれないかなーと恨めしく思うが、なかなか言い出せない。エクセルをこよなく愛する人たちからはなんとなく、とにかくエクセルでやりたまえという無言の圧を感じる。
そんなわけで、毎日1回は「こんな脳みそいらねえ」と思う。物が消えてしまうと、かつては消えた物を罵りながら半泣きで探し回ったものだが、最近では「慶子さん、かわいそうにね、こんな脳みそで苦労して、本当にかわいそうだ」などと声に出して自分を憐れみ慰めながら半泣きで探し回るようになった。物が消えるのは物のせいではなく脳みその特性だと分かったからだ。でもまあ、私はどういうわけかこのような私で生まれてきたので、死ぬまでこの私を生きるしかない。そういう私を特段身構えることもなくそうなんだなと認識している夫が近くにいることは、確かに心強いことではある。
しかし夫の脳みそだって、私にしてみたら謎である。頭に砂利が詰まっているのかと思うほど話が通じないこともあるし、何を言っているのかさっぱり意味不明なこともあるし、ときには想像もつかない経路で思いもつかないようなことを言うので、私とは全く異質の知性を感じて尊敬することもある。話が通じないのは私が砂利頭だからという可能性もある。ヒトは大きな脳みそのごく一部しか使っていないという説もあるようなので、そもそも誰の頭も大部分が砂利であるという見方もできよう。
砂利は岩石が砕けて川を下りながら丸みを帯びたものだそうだ。頭に岩が詰まっているよりも水を通すし、経験豊かで柔軟である。私の頭の中の岩石は、夫と過ごした26年で怒りに砕かれ涙に洗われ、笑いで角が取れ諦めで丸くなって、いい感じにこなれつつあるようだ。どれほど近くにいようと決して混ざり合うことのない頭を寄せ合って、ジャリジャリやるのが面白いのだろう。
前回記事「25年目夫婦の行く道は孤独な運転に似ている。ベテランタクシー運転手さんの極意から思うこと【小島慶子エッセイ】」>>
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