仕事の合間に、ひとり飛び込んだランチタイムの中華屋さんで大好きな小籠包を追加オーダーをしました。

お店の方から「先にスープを穴から飲んでください。そして、その後に黒酢をつけてお召し上がりください」と供された小籠包。説明された途端、「違う、それは、違う!」と、私はとっさに(心の中で)お店の人にツッコミました。

小籠包はレンゲの上にちょこんとのせて、薄い皮をお箸でプチッと裂いた時にあふれ出るスープに感動することがまず醍醐味なのではなかろうか。「こんなにも入っていたのか!」と驚きながら、レンゲを満たしたスープを先にいただき、その後、少し冷静になってを生姜をのせて本体を。

そして、「いけるかも?」と歯で少し穴を開け、そこから口先で直接すすってしまったりもする。「熱いかも?」と火傷覚悟で臨む(!?)、そんなロシアンルーレット的少しお行儀の悪い小籠包の食べ方も時にはアリ。

2つめでだいぶとコツがつかめ、3つめを食べる頃、やっとその店の皮の特性やスープの流出のあり方を完全掌握し、「我ながら上手に食べられた」と自分のささやかな学習能力にウットリしたりして……。

でも、この小籠包にはスープを飲むための穴があった。味は充分に美味しかったのだけれど、何かが足りない。ちょっと寂しい。私が、鬼皮や渋皮に悪戦苦闘して小さな達成感とともに茹で栗を食べるのが好きなのも、きっとそういうこと。面倒くささが愛おしい。

誰かのための合理性が誰かの幸せを奪っていることもあるのかも。そんなことを思った秋なのでした。

今日のお品書き
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