全方位の表面張力


――こ、更年期! 

先月、私は思わずネットで「更年期 いつから 閉経 早い人」などと検索した。たしかに生理の間隔は疲れ具合によって乱れるようになってきたけれど、まだ42歳。漢方を飲んだり、ホルモン補充をしたりするのはもう少し先のイメージだったのに。

締切前はいまだに終電帰りになるこの編集プロダクションで、料理系と旅系の専門誌をコツコツ作って20年。働く環境は新卒の頃に比べてだいぶ改善されたけれど、それは1日10時間もいる編集部フロアが禁煙になったり、休日出勤が減ったりしたくらい。

雑誌編集者が締め切り前に激務で徹夜するのは当然だと思う程度には、私もこの斜陽産業に飼いならされていた。

結局のところ、センスや才能というよりも気力と体力勝負なのだ、長く、一線で働くというのは。

それが身に染みていたから、このところの不調は独り身で生計を立てる私にとって、それはそれは切実な問題だった。まずい。少なくともあと20年は働かなきゃならないのに。

もうだれかが養ってくれるかも、子どもを産むかも、とは思っていなかった。とにかく体を壊さずに自分を食べさせていかなければならない。おまけに周囲に嫌われず、会社から不要と思われない程度に成果を出し、独身で可哀想と思われない水準で見た目や服装に気を配り、適度に休日が充実している様子を演出し、ふらりと楽しそうに一人旅に出て、日々機嫌を良くしていなくては。

全方位にほんのりと少しだけいい結果が求められるのが、独身40代女子というものだ。それは結婚しない、子どもも産まないことの辻褄合わせのようなものかもしれない。自分のことに没頭できる時間があるでしょう、という他者からの視線がそうさせる。

頭に表面張力、という言葉がぽっかりと浮かぶ。

 

編集長と副編集長

「まさか、もう更年期…!?」42歳独身女子に起こった予想外の不調。そのときまっさきに考えたのは..._img0
 

「浅見さん、この企画、任せても?」

営業との企画会議の前に、編集長の川上さんが資料を片手にデスクにやってきた。Yシャツの袖をいつも折りあげている。44歳。細身で清潔感があるからとても若く見える。Yシャツからのぞく腕が意外に美肌なのは東北出身だからだろうか。

口数が多くなくて淡々としている上司はつかみどころがなくて大変ね、と社内で言われることが多い。なんせ私と編集長の2人、今はアルバイトの絵里ちゃんが週3回きてくれるけれど、この小さなチームで月刊誌と季刊誌、ムックをつくっている。気が合わなければ悲惨な体制だ。

しかし幸いにも、私には彼の考えていることはなぜだかとてもよく理解できる。5年も編集長と副編集長としてやっている成果だろうか。歳はふたつしか違わないけれど、彼は私にとっていつだって頼れる上司だ。

「承知です、取材中の質問リストは事前に送ったほうがいいですよね?」

「お願いします。メール、ccでいれておくから、あとは任せます。カメラマンは佐田さんを連れて行ってください」

編集長は余計なことはあまり言わない。もし私が20代だったら、突き放されているように感じるだろう。実際、先月アルバイトの絵里ちゃんが来た時、3日目のランチタイムに彼女はひそひそと「川上編集長に嫌われてますかね? 私?」と訊いてきた。

「ないない、いつもあんな感じ。心配いらないよ。ああ見えて結構うちに熱いパッションを秘めているのよ」

私のセリフをケラケラと笑った絵里ちゃんは、おそらく冗談だと思ったんだろう。

でも、それは私の本心だった。

編集長は、いつも一定のテンションだ。激高するところを見たことがないし、忙しいときも当たらない。原稿を書くときの姿勢がすっとしている。気分で私をからかったり軽口をたたくこともないし、距離を必要以上に詰めてくることもない。

でもいつだって私を一人前の編集者として尊重してくれたし、勝手な都合や意見を押し付けてきたことは1度もない。

他の編集部の仲間と飲みに行くと、もはやお約束のようにいじられる私の独身彼氏ナシのマイペースライフをからかわれたことは5年で一度もなかった。

それは結構、すごいことだと思う。

そして彼が書く文章は、いつも立場が弱いほうに優しい。文章には人となりが投影されると確信しているので、それは私にとってとても安心できる要素だった。そんなわけで、私は編集長を、静かに、でもゆるぎなく信用していた。毎日必ず会う人が、編集長でよかった。

なにせ天涯孤独、独身の私には、ほかにそんな人は世界中どこを探してもいないのだから。