器用に車線変更しながら前進するなんて至難の業
彼と出会った頃の私の生活はいわば一車線だった。自分一人の都合でただ仕事のことだけ考えて走っていた。結婚した時にはそこをタンデムで走るような浮かれた錯覚に陥ったが、子供を持つと家族という新たな車線が増えた。もう自分のペースで走ることはできず、夫婦して幼児の育児に追われ、家族車線ばかり走るようになって、自分車線があることなんて忘れかけていた。器用に車線変更しながら前進するなんて至難の業だった。さらには一家で海外に移住して、私だけが日本をベースに日豪を行き来する二拠点生活となった。新たに「アジア系移民」という新車線が増設され、一度の人生で全く異なる立場の二つの暮らしを生きることになった。若い頃に走っていた「自分のためだけに働く」車線は通行止めになって、「ひとりぼっちで家族のために働く」という新たな車線を、弱音を吐きながら走り続けた。こんなふうに最初は1車線だったのにどんどん車線が増えて、なのに全体の道幅は広げようにもその余地がない。なぜって道路の両側には仕事やら家族やらいろんなしがらみが立て込んでいて、自身の「でなければならない」の思い込みでみっちり固められている。完全に逃げ場がないのだ。これを夫婦それぞれにやっている。夫の人生も何車線にも分かれている。そのうち私が存在を知っているのはいくつかで、きっと私の知らない細い車線を彼一人で走り続けた時期もあるだろう。
人生街道を47年も走り続けていると「降りる」ということを覚えるらしい。運転手さんは笑いながら話してくれた。「空港までの新しいトンネルが混みそうな時は、あえて高速に乗らずに下道を行った方がいいんですよ。私らの時代は川沿いの下道をひたすら突っ走って羽田まで行ったりしたもんです」。
そう言えばこの前乗った別のタクシーで、銀座の松屋通りに行ってくださいと言ったら、運転手さんが「あれは中央通りというんです。まっすぐ行くと青森に着くんです」と言った。18歳で秋田と青森との県境の町から東京に出てきて50年近く経つという。運転手さんの視線を辿ると、ビルだらけの銀座の向こうに初めて広い日本が見えた。地続きなのは当たり前なのに、東京ばかりウロウロしている私の目にはその先の世界が見えていなかった。
「ちょうどこの秋に下北半島を旅してきました」と言いながら、街を眺める。この道を真っ直ぐ行くと故郷に着くと思って走る中央通りはどんな景色なのだろう。「私は銀行に勤めていたんですけどね、仕事が嫌になってやめました。今の首相は銀行の後輩に当たります。好きな車に乗る仕事を始めて、この年まで働いていられるのはありがたいことです。田舎の母は90歳で、秋田新幹線のおかげで始発と最終で日帰りで会いに行けるようになりました」好きなことを仕事にできる人は多くはないですからよかったですね、と言いながらちょっと自分の人生も考える。同じ道を走っているのに、人は別の景色を見ているのだ。夫婦だってきっとそうだろう。車線を変えたり加速したり減速したりしながら、後戻りせずにそれぞれに走り続ける。
運転手さんは私を松屋の向かいで下ろした後、青森方面に向かって走り去った。これからは私も銀座の先に青森を感じながら歩くようになるだろう。私の中には、無数の他者の眼差しが取り込まれている。きっと夫の眼差しももはや血肉となって、私に世界を見せてくれているだろう。それは幸せな景色だろうかと自問すると、答えはYESなのだった。彼と出会って、私は世界をそれまでよりも信頼に足る、期待に値するものとして見ることができようになった。その直感があったから、彼のボロいマンションの一室に転がり込んで一緒に暮らし始めたのだ。彼と出会わなければ知らずに済んだ地獄もある。でもそこから自力で這い出す力を私が何によって得たかと言えば、彼と出会い、息子たちと出会い、自分が何者だろうとこの世は生きるに値する場所であると知ったからだった。この道を真っ直ぐ行くとどこに着くのだろう。わからないが、夫と同じ方向に向かって走っていることは確かだ。互いの気配を感じながら孤独なロングドライブを続けるのが、夫婦道というやつなのかもしれない。
前回記事「「察して」で逃げずに言葉で説明できるようになった夫。夫の気づきと変化を敬うようなった私【小島慶子】」>>
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