ドイツや森で暮らして得た、ある実感


都会で知らぬうちに失われてゆくそんな「人間らしさ」を、思い出させてくれるのが森の生活です。典型的なものは「夜の暗闇」と、小川さん。


小川:自分が吸い込まれてなくなってしまいそうな感じがあって、夜って本当にこれだけ暗いものなんだなと。今(9月)だと夕方6時前にはだいぶ暗くなってきて、ちょっと外に行くだけでも覚悟が必要なくらい。ゾクゾクっとするような闇なので、そこを明かりもなく一人で歩ける人っていないんじゃないかと思います。そういう“畏れ”みたいなものを、昔の人は日常的に感じていたんだろうなと思うし、それが謙虚さみたいなものにもつながっていると感じます。そうした厳しい自然環境を人間の力でなんとかできるなんて思えないし、嵐が来たらただじっとしているしかないんです。本当は東京にも同じ闇があるはずですが、明かりをつけることで誤魔化している。それが身体のリズムを狂わせている部分もすごくありますよね。でも自然には“畏れ”と同じくらい多くの“神秘”も感じます。これから冬の季節は、満天の星空も見ることができます。空にはこれだけの星が本当にあるんだなと。

小川糸「自分の人生のために居場所を作る」子どもは親を選べないけれど、大事なものは譲らないで_img0
 

物語の中には、ある大きな喪失感と後悔を抱えた小鳥が、美しい星空を見上げて「その星の光を、悲しみの涙に邪魔されたくなかったのだ」と、涙をぐっと堪える場面があります。人生に痛めつけられながら屈服せず、小鳥はそんな人生の中にもある美しいもの、優しいもの、素晴らしいものを選び取ろうとします。その最たるものが、お弁当屋さんを営む「理夢人(リムジン)」との出会いです。量子論を通じて「死んだ人は今もここに一緒にいる」と語り、情報でなく実感として世界を知るために定期的に山ごもりする、ちょっと変わったリムジンは、小川さんがドイツや森で得た「実感」が反映されたキャラクターです。


小川:森での生活では自分がいかに何も知らないかを痛感しますし、理夢人のようにもっともっと自然から学びたい、発見したいという気持ちになります。この年になって実感するのは、本当に確かなものは情報でなく経験からしか得られないということ。肌が触れた感触とか、手のひらで感じた温度とか、そういう自分の感覚を通して得たもの、納得したことだけが全てというか。森では、本来の地球はこんなにも美しく素晴らしいものなんだと感じるし、真っ暗だった世界を照らすお日様の恵みも実感します。そうした経験が、人間らしさや生命力、自然治癒力につながるのかなと。生まれながらにも持っているけれど、自然の中でこそ目覚めさせられるものだと思うんです。そういう時間を無駄にしたくないなと感じています。
 

 
小川糸「自分の人生のために居場所を作る」子どもは親を選べないけれど、大事なものは譲らないで_img1
 

『小鳥とリムジン』小川 糸
ポプラ社 ¥1780

小川糸が描き出す、3つめの「生」の物語
「愛することは、生きること」


傷口に、おいしいものがしみていく
苦しい環境にあり、人を信頼することをあきらめ、
自分の人生すらもあきらめていた主人公が、かけがえのない人たちと出逢うことで自らの心と体を取り戻していく。


主人公の小鳥のささやかな楽しみは、仕事の帰り道に灯りのともったお弁当屋さんから漂うおいしそうなにおいをかぐこと。
人と接することが得意ではない小鳥は、心惹かれつつも長らくお店のドアを開けられずにいた。
十年ほど前、家族に恵まれず、生きる術も住む場所もなかった18歳の小鳥に、病を得た自身の介護を仕事として依頼してきたのは、小鳥の父親だというコジマさんだった。
病によって衰え、コミュニケーションが難しくなっていくのと反比例するように、少しずつ心が通いあうようにもなっていたが、ある日出勤すると、コジマさんは眠るように亡くなっていた。
その帰り、小鳥は初めてお弁当屋さんのドアを開ける――

撮影/神谷美寛
取材・文/渥美志保
構成/坂口彩
 

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