いわゆるゾーンに入っていたのかもしれない


決勝戦は、選手も楽しそうにプレーしている印象でした。監督の気持ちを選手たちも汲み取っていたのかも、ですね。

栗山:負ける感じがしなかった、と選手も言っていましたね。
ただ、僕もそうは思っているんですけど、やり尽くすべきことは、やり尽くしていく、ということは意識していました。
ほんのちょっとでもやり残したことがあったり、僕ができることをやらなかったら勝てないと思っていたからです。そういうときに勝利の女神は背を向けるんです。

翔平が最後にマウンドに上がる前の8回裏、2アウトから打者の源田がサードゴロに打ち取られたんですが、この一塁アウトの判定について、僕は「チャレンジ」をしたんです。ビデオによるリプレー検証を要求した。

アウトだとわかっていたんです。でも、もしかしたら映像的にセーフという可能性があるなら、リクエストの権利は残っていたし、やらないといけない、と。それをしない自分は、負けさせる可能性があると思ったんですね。

リクエストに出ていったとき、翔平がブルペンから出てくるのが見えました。戸惑って、足を止めたんです。翔平のために時間稼ぎで僕がリクエストした、なんて話も言われたりしたんですが、違います。
逆ですよ。翔平待ってくれ、悪い悪いちょっとタイミングがずれちゃうかもしれないけど、この勝負だけはやり尽くさないと絶対勝てないから、ちょっと待っててくれ、という思いだったんです。

だから、ワクワクした自分と、やるべきことを冷静にやり尽くす自分が2人確実にいて、そこは淡々とすべてのことを網羅していくという感じでしたね。ワクワクだけど冷静。それこそ、いわゆるゾーンに入っていたのかもしれないです。

 
 


神様が見ているのは“生き様”


やはり、いろんなことを試合中、考えているんですね。

栗山:考えるスピードが問われるんです、監督って。もちろん、さまざまなシミュレーションもしていますが、急にシチュエーションが変わって、準備していたこと以上のことが起きたりするのが野球なんです。

10分もらえたら答えは出せるかもしれないけど、そんなに時間はない。30秒で答えを出さないといけない。ここが一番、難しいところです。そこで、パッと答えが出せるかどうか。

それこそ、ここで神様が大事なことを教えてくれるようなときがあるんですね。どうしてあんな判断を、と人に言われたりするんですが、監督をやると本当に神様論になることがあって。

僕がいくらやってもできないことを、神様が与えてくれるとしか思えなくて。だから、生き様が必要になる、ということなんだと思っています。神様はそれを見ているんだ、と。

頑張っても勝てないとき、周囲に共感してもらえないときは結局、生き様が認められていない、ということなんだと思っています。

僕の場合も、どう手を打っても、何も変わらないことが続いた。それで苦しくなって、中国の古典に行き、稲盛さんの本に行ったわけです。多くの監督が行くと思います。
三原監督の本を読んでも、そこに行っている感じはしました。最後は人だ、とちゃんと書いてありますから。

『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』
編著:稲盛ライブラリー+講談社「稲盛和夫プロジェクト」共同チーム(講談社)