涙を流すほど懐かしく、恋しいものの正体

もちろん、世界一の恋が結婚に至る恋とは限らない。大抵の人の場合は違うんじゃないだろうか。結婚に至ったのはたまたまその時もろもろの条件が良かったからだろう。以前「色々いる中から母親と吟味して最も条件のいい男を選んだのにこんなことになるとは」とぼんくら夫への不満をぶちまけていた知人がいたが、条件が人を幸せにしてくれるわけでもないことは皆さん知っての通りである。

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それにしてもなんで私は、次がないと言って泣いているのか。だってまだ今年で52歳だ。聖徳太子と夏目漱石はすでに死んでいた年齢だが、伊能忠敬とファーブルはまだ測量の旅も昆虫記執筆も始めていない。これから新しい挑戦だっていくらでもできるはずじゃないか。マッキーだって、失恋したからってもう2度と恋をしないなんて言わないよと歌っている。

私が泣いている理由は、新しい恋がしたいからじゃない。もう心身ともに性腺は涸れている。駆け引きなんて鬱陶しいし、ここ最近のフローラブームで人体が細菌叢に満ち満ちていることを知ってしまったので他人との不用意な粘膜接触もしたくない。ただ、無傷の幸せなんてこの世にないってことを知る前の自分が恋しいのだ。あれは能天気な幼い幻想だったけど、世界は美しかった。その無防備さを懐かしんで涙が出るのである。あの頃はまだ、心の処女膜があった。私が懐かしんでいるのは、このクソ複雑な世界と深く交わってしまう前の純真なのである。
 

 


知人が、50代で見合いして再婚した。相手も50代の女性だという。ほほうそんなことがあるのかと思った。男が再婚する時はうんと年下の女を望むものだと思っていたがそうでもないのねと世間知らずの私は食べている寿司の味が一瞬わからなくなるくらい衝撃を受けた。再婚同士なので、夫婦でお互いの詳しい過去は一切聞かないことにしているという。過去にどんなひどいことをやらかしていても死ぬまで知らずに済むわけだ。 じゃあ、私にだって! と思った。私にだって次があるかもしれないじゃん。その時は夫と別れる気だったので「夫の次」と思ったわけだが、すぐに寿司の味が戻って大事なことを思い出した。「全ての男は事故物件」という私の名言だ。そうだった、そうだった。また一から押し入れ開けてミイラの粉を被ったりするのは嫌すぎる。どうせ出るなら見慣れたお化けがいい。