病気をして、本当に沢山の方々から、沢山のお気持ちをいただいた。それはお手紙であったり、お守りであったり、(食欲だけは衰えない、という私に)美味しいものであったり…。その一つ一つに勇気づけられ、深い感謝の気持ちが湧いた。
と同時に、どうやってお礼をしよう…という“宿題”が私の頭をもたげるようになった。
もちろん、お気持ちをくださった皆さんが、お礼なんて期待されていないことも、すぐにお礼がほしいと思っていないことも、重々解っていた。
ですが、何かしていただいたことには、自分が忘れてしまわないうちに、なるべく早くお礼を、という性分の私にとって、学期末の論文提出みたいに、気の重い宿題となってしまった。

ある時、一人の友人が、夫にそっと話した話があった。
以前、彼女が、あることで悩んでいたとき、まわりの人達が、親切心で、色々心配してくれたり、情報をくれたりしたのだが、それがかえって彼女自身を苦しめることになってしまった。そんなとき、新聞で“優しい無関心”という言葉を見つけて、心が救われた、という。だから、私の病気に関しても、彼女は“優しい無関心”の姿勢を貫きます、と。

彼女の、その言葉を伝え受け、私も、ふっと心が軽くなった。
そう、今は自分の置かれた状況に自分を合わせていくことで精一杯で、他人のことなんて考える余地はない。いっそ、無関心で、気がつかないふりをしてもらっていた方が、ずっとずっと楽なのである。
それで、少し余裕ができて、こちらからコンタクトを求めたとき、「元気だった〜?」と話をゆっくり聞いてくれたら、それで充分、心が救われるのである。

しばらくの引きこもりののち、彼女を含めた沢山の人が集まる会に、意を決して参加したとき、居心地悪く隅にいる私の隣に、ストンと座って、何かじっくり聴きこんでくるわけでもなく、ずっと隣に居てくれたことは、彼女の優しさのバリアに包まれているようで、本当に嬉しかった。


長いご無礼期間を経て、少し余裕ができたときに、ご心配をいただいた方々に、お礼ができた。気の重い宿題と思っていた“お礼”も、「どんなものを差し上げようかしら?」と思いを巡らすことが、いい気晴らしとリハビリになっていたことにも気がつく。


もしこれから、自分の周りに、同じような状況に陥ってしまった友人が現れたら、どんなスタンスでいるべきか?
その状況に陥ってしまった者の気持ちは、その当事者にしか解らなくて、それに手を差し伸べようなんて、おこがましいこと。ですが、知ってしまったからには、無関心を装うわけにもいかない。
さらっと一筆したためて(こういうときこそ、メールくらいの簡易さが良いのかも)、あとはときどき、その人のことを思い出し、忘れたりしながら、その人から連絡が来るまで待つことにしたい。もし、何か求められることがあれば、時間を割いてでも駆けつけたい。
そうして、その人が元気を取り戻した暁には、こっそりお祝いしたいと思う。

◯きょうの絵・・・平松麻「ライム」   
平松麻 展@Rainy day Bookstore & Café 〜9月17日(祝)まで。
撮影/白石和弘