くさや倶楽部と、その仲間たち。_img0
 

学生時代、とんと恋愛関係にご縁のない者同士で、「くさや倶楽部」を結成した。
“とっつきにくいけれど、ハマったら病みつきになる(はず?!)乙女”という意味で、くさや倶楽部。部長は、私の姉。副部長は、私。書記は、私の小学校からのソウルメイトのGさん。大学4年生頃には10人近くいた部員も、卒業をして日を追うごとに「私、結婚することになったの」という報告と共に、一人、また一人と脱退していき、結局10年後には、結成当時の初期メンバーの3人を残すのみとなった。
「結局、正真正銘の“くさや”は、私たちなのよ・・・」

そうして、30も後半に差し掛かった頃、「いい加減マズい」と思った“部長”は、合コンをひらいた。お相手は、部長の幼稚園時代の同級生が集めた3名。“くさや”の友はやっぱり“くさや”のようで、かなり変わった面々であったが、なぜか私たちは気が合った。誰が誰、ということでもなく、何度か皆で会うことがあった。そうしている内に、“書記”のGさんと一人の男性が付き合うことになり、結婚した。私は、“書記”の“寿”脱退を、心から喜んだ。

その1年後、“副部長”の私は、プチ恋愛をして、結婚した。
そして、そのまた半年後、“部長”の姉が、ネット婚活で見つけた人と電撃結婚した。

こうして、“くさや倶楽部”は、めでたく消滅したのであった。


しかし、やっと結婚できた私たちには、次の課題があった。妊活である。
最初に結婚したGさんは、しばらくは自然に任せていたが、なかなか恵まれないのでクリニックへ行ってみたところ、できにくい身体だと宣告を受け、かなりショックを受けながらも治療に取り組み始めた。
次に結婚した私は、結婚早々に病気を患い、その治療のため、しばらく妊娠はお預けになった。
そのお預け期間中に、Gさんのご懐妊報告を受けた。私に輪をかけてネガティブ思考のGさんが、度々、治療がうまくいかないことに心を乱していたことを知っていたので、Gさんのご懐妊を心から喜んだ。
また、そのお預け期間中に、電撃結婚した“部長”の姉が、「年齢も年齢だし」と早々に不妊治療を始めた。

そうして、半年ほどが経ち、私は、やっと妊活の許可をいただき、治療を始めた。
Gさんは無事に男の子を出産した。出産の報告を受け、すぐに大きな花束を持って、お祝いにうかがった。
そしてすぐに、姉から「妊娠した」と報告を受けた。そこには、姉の妊娠を喜べない自分がいた。この気持ちが治まるまで姉に会うのはやめよう、と決め、パタリと連絡を取るのをやめた。
しかし、3ヶ月経っても、半年たっても、その気持ちは治らなかった。むしろ、思い出すたびに、「なんで私より先に?」「なんで、あんなに不健康そうな姉にできて、私にできないの?」という思いが募り、心が乱れた。

このままでは、きっと出産のときも「おめでとう」と言えないかもしれない、と不安になり、Gさんに相談してみた。するとGさんは、大いに共感してくれた上、いいアドヴァイスをくださった。
自分が不妊治療で苦しんでいるときに、芸能人のおめでたニュースに心を乱したり、友人のご懐妊報告を喜べない自分がいて、苦しくて神父様に懺悔しに行ったそう。すると神父様は、「ひたすら、その友人とお腹の赤ちゃんのためにお祈りしなさい」と話された、という。一見優しい言葉の裏には、「嫌なことから目を背けず、気持ちを向けなさい」という厳しいメッセージである。Gさんは、それを実践し、初めは「何くそっ!」と思っていた気持ちがふぁと消えていく感覚があったという。
Gさんの言葉で、八方塞がりで息苦しかった私の心に小さな空気孔ができたような感覚があった。

夫にこの話をしたら「二人は、超ネガティブで、超真面目なところが似ているよね」と一笑してくれて、また心が救われた。


“くさや倶楽部”は、少し体裁を変えて、複雑に絡み合って、実はまだ存続しているようだ。

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◯今日の思い出・・・夫の後輩に撮ってもらった結婚式のときの写真と、そのお嫁さんの選んだアンティークの写真立て。
写真:白石和弘