近年、広く知られるようになった、ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉スペクトラム症候群)などの非定型発達。これらは本来、脳の働きの特性であり病気ではないのですが、公的には医療保険の効く薬があったり、「普通」とは違うその症状から、病的にとらえられることもあります。ですが、自分が「普通」だと思っている定型発達の人の特性も、自分も他人も苦しめる「病い」的なものではないか。そんな問題提起をしているのが、精神科医・兼本浩祐さんの『普通という異常 健常発達という病』です。

“「病」が、ある特性について、自分ないしは身近な他人が苦しむことを前提とした場合、ADHDやASDが病い的になることがあるのは間違いないでしょう。一方で、定型発達の特性を持つ人も負けず劣らず病い的になることがあるのではないか、この本で取り扱いたいのは、こういう疑問です。

たとえば定型発達の特性が過剰な人が、「相手が自分をどうみているのかが気になって仕方がない」「自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から矢も楯もたまらなくなってしまう場合、そうした定型発達の人の特性も病といってもいいのではないか、ということです。”

「いじわるコミュニケーション(いじコミ)」は健常発達の人の願望?

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まず、定型発達(健常発達)の人の特徴として「いじわるコミュニケーション」、略して「いじコミ」があるのだと筆者は言います。 


“いじコミというのは、適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術のことです。

テレビドラマの世界は、いじコミが、いかに多くの健常発達の人を惹きつけているのかを例証しています。多くの韓国ドラマでも、そうしたシーンは枚挙にいとまがないほどですが、一時期一世を風靡したいわゆる昼ドラでは、いじコミそれ自体がかなり純粋にテーマ化されています。”

 

 


傍観者・当事者いずれにせよ、誰しもが一度は遭遇する「いじわる」という現象。それが定型発達(健常発達)の人のコミュニケーションだったなんて⋯⋯。

「いじわるコミュニケーション」のわかりやすい事例として、20年ほど前に大流行した東海テレビの『牡丹と薔薇』という昼ドラを挙げています。ドラマの内容はツッコミどころ満載なのにもかかわらず、人気を博したのにはストーリーの合理性よりも、健常発達の人たちの願望を刺激する仕掛けがあったからでは、と筆者は考察しています。そして、「いじコミ」とは、対人希求性(人を求める気持ち)の表れの一つなのだと言います。