日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイのタイトルは〈前編〉に引き続き「悲ロ活のすすめ〈後編〉」です。演じることの魅力に子どもお涼さんが気づいたきっかけとは。

「おれは誰かにさわってほしかったんやな」9歳でミュージカル「CATS」に号泣してしまった背景を語る【坂口涼太郎エッセイ】_img0
 

私はひとりっ子だったので、ひとりで空想することに関しては幼い頃からお手のもの、鍛錬に鍛錬を重ね、小学校に入学する頃にはレゴの人形なんてなくとも、コップや食器、鉛筆や消しゴム、その他自宅にある全ての雑貨を戦わせて天下一武道会的なものを開催させたり、水滴同士を合体させたり離れ離れにさせたりして、切ない恋物語を脳内で繰り広げてみたり、道端の石、道端の草、その他道端系の全てを活用して大冒険を繰り広げては迷子になったり、有機物無機物おかまいなしにとにかく命と性格を与えて空想に没頭してはひとり時間を満喫していた。

 


そんな、空想に関しては百戦錬磨のこどもお涼に決定的な革命を与えたのは劇団四季のミュージカル「CATS」でありまして、9歳のこどもお涼はグリザベラというかつては美しくてみんなに求められていたけれど、いまでは衰えて身に纏うものもぼろぼろになり、穢らわしいと周囲に疎ましがられ虐げられる娼婦猫が最後に渾身の力を込めて「お願い わたしにさわって わたしを抱いて ひかりとともに」と歌い上げる姿に全身を面でどつかれたような衝撃を受けて号泣。「その気持ちわかりすぎて、おれの気持ちすぎてありがとう」と、まだ人生9年目の少年が共感共鳴して劇場の椅子でずぶ濡れになっていた。

どうしてそんなにグリザベラと同化してしまったのかというと、私は5歳のときにひどいアトピー性皮膚炎になってしまい、自分の姿を鏡で見るのも、人に見られるのも、昼間に太陽の光を浴びて自分の姿が鮮明に見えるのも、何もかもが厭な厭厭期があったのです。