はい、と返事は声にならなかったけれど、私の心に刻まれた。とても深く。
――ちゃんと叱ってくれて、ありがとうございます。
茶化されたり、スルーされたり、口先だけは慰められて軽蔑されたりしたら、きっと自己肯定感の低い私は深く傷ついただろう。叱ってもらったことで心が落ち着いて、リカバリーに集中するスイッチが入ったように感じた。
それから私たちは、もくもくと、240ページのゲラに赤字を入れた。
集中力が切れたときは、編集長が買ってきてくれたフルーツサンド。開けると、豪華、マンゴーホイップクリームと小倉クリーム。これをいかにもクール然とした彼が買ったのかと思うと、不謹慎にもちょっとだけ笑いが込み上げた。私は半分ずつにして、そっと編集長のデスクに置いた。
作業が続く。集中しきって小一時間も経った頃、ふたたびそっと横を見ると編集長もさすがにメガネを外して目をこすりながら読んでいる。申し訳ない……。時計は23時半を指している。
「編集長、あとは私が2周、読んでおきますから、もう帰宅してください」
「終わった!」
唐突に編集長が両手をあげた。彼の手元を見ると、たしかに最後の1ページに赤字が入っている。
「え、うそ、早い! さすがです」
「何年この仕事やってると思ってるんですか。さ、浅見さんもさっさと読む。終電なくなりますよ」
それから編集長は、素早く印刷所の担当者にメールをして、明日朝一にゲラを持っていくと周知した。メールをしながら、「あの封筒は、大きく印刷会社の名前が入っているから、返ってくる可能性もあります。紙焼き写真のことは、明日1日、待ちましょう。きっと大丈夫」と言ってくれた。
「でも……見つからなかったら、始末書でもなんでも書きます、私が責任をとります。窓際に異動でもなんでも。だけど、うちみたいな小さい会社に閑職なんてないですもんね……異動も難しいだろうし、くび、ってこともありますかね」
最後の言葉はすごく小さな声になっていたと思う。ここをくびになったら、仕事なんて見つかるんだろうか。編集しかできない編集バカなのに。編集長みたいに学歴もないし。絵里ちゃんみたいに後ろ盾も、帰る実家もない。
何より、くびになったら編集長と会えなくなってしまう。
すると編集長は、あほくさい、というような顔で背もたれにもたれかかった。
「こんなことでくびになるわけないだろう。浅見さんの仕事ぶりはみんな知ってる。ちなみに僕と同窓なのをいいことに社長に、『副編集長は浅見さんでないといやだ』ってごねてるんだよ。だから5年も異動がないんだ」
「はあ……?」
私は思わず、間の抜けた声がもれた。
「へ、編集長? え? そうだったんですか? 初耳です……」
「仕事半分、私情半分だからね」
編集長は、さっと立ち上がると、ジャケットを羽織った。なぜだか恥ずかしくて、顔を見ることができない。
「帰りましょう。今日は一日、本当によく頑張りました。最近体調もあんまりよくないでしょう? しっかり寝ないと。じゃ、また、明日」
彼はそう言い残すと、ひらひらと手を振って去っていく。彼のペースだ、何もかも。
胸がどきどきしている。まさかこれも更年期?
おなじみだけど、いつもとちょっと違う動悸に、私は思わずため息をついた。
……いろんなことがあるな、生きてると。
情けないミスをしたり、好きなひとに叱られて、一緒に残業して、嬉しい言葉をもらったり。体調は相変わらずだし、トラブルは解決していないけれど。
まだまだ、自分なりに頑張ろう。人生の意外性に期待して。
私は残りのゲラを猛スピードで読み始めた。
次回予告
真夏のある日、インターホンに不思議な人影があり……?
イラスト/Semo
編集/山本理沙
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