平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。
第80話 ワーキングマザー【前編】
「じゃあ、お母さん仕事に行くね! 翔太、一緒に出よう。テーブルに水筒とお弁当あるからリュックに入れて。夏休みの宿題、入れた?」
「はいはい。あーあ、せっかく夏休みなのに、どうして毎日学童いかなくちゃいけないの? ぼくもお姉ちゃんみたいに家にいたいよ~。3年生の友達あんまり来ないもん」
7時50分。夏休みだというのに普段と変わらない我が家の朝。いや、いつも以上にバタバタと忙しい。長期休みの難点は、給食がないこと。朝からお弁当づくりで6時に起きた。
「加奈、スイミング、いつもと違う時間だから気をつけて。水筒に麦茶を入れてね。タイマーかけておいたから、13時になったらおうち出るのよ」
「はあい」
小5になる加奈は、リビングで学校の宿題をしながら返事をした。昨日から将来の夢についての作文を書いている。朝から感心だけど……1日中ひとりで過ごすと思うと、本当は学童に行ってほしい。キッズ携帯のGPSで場所は把握できるけれど、仕事中にそうしょっちゅう見ているわけにもいかないし。
「加奈、火の元には気をつけてよ。お弁当、冷蔵庫に入れておくから、お昼にあっためて食べてね」
「はあい」
加奈はえんぴつを動かしながら同じ調子で返事をする。その様子に、こちらもため息をつきたくなった。それは娘に対するいら立ちというより、自分に対しての抗議に近かった。
――これが小学生の夏休み? 私の小学5年生の夏休みと、まったく違う……。
浮かんでくる私の夏の記憶は、どれも胸がきゅっとなるもの。
お盆のおばあちゃんの家の賑わい。早朝のラジオ体操とびっしょりの汗。公園のうるさいくらいのセミの鳴き声。ひんやりした畳の上で、「今日は何をしよう?」と寝転んで思いを巡らせる午前中。
まるっと自由だった。振り返ればお母さんがいつだって家にいて。
……でも感傷に浸っている場合じゃない。現実は変えられない。
「なるべく早く帰るからね。18時半には!」
返事を待たず、私と翔太はマンションの玄関を出た。
ワーキングマザーとしてお金を稼ぎながら子どもを育てているという自負はある。……私が働かないと、やっていけないし。
一方で、専業主婦だった私の母がしてくれたさまざまなことが思い出されて、ときどき子どもたちにごめんね、と無性に謝りたい気持ちになる。
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