こんにちは、ミモレの川端です。今日はお花見の約束をしているのですが、寒いですね。午後から暖かくなるかしら。
大好きな詩人の最果タヒさんのエッセイ『きみの言い訳は最高の芸術』の中に、
「宇多田ヒカルを聴いて、思い出すのが校庭の匂いなら、きみの幼少期は最高なもの。」(詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』収録のご本人の詩の一文)
が出てきてハッとしました。

「社会現象だとか、若者の代弁だとか、そういう『共有される歌』ではなくて、聴く人それぞれの個人的な体験として彼女の歌は聴かれ、だからこそ、聴く人にとってその記憶はまったく違っている。」
という解説に、私とても感銘を受けたんです。まったくそうだなと。
宇多田ヒカルの「Automatic」がどこのスーパーでもファッションビルでもかかりまくっていたころ(1998年12月発表。私は大学生でした)、みなさんは何歳で、どんな恋をして、いやもう結婚されていた方も、子供がいる方もいらっしゃるかもしれません。
それぞれの思い出があって、共感も共有も必要ないもの、それこそ「ポップ」だ!と最果タヒさんは書いています。
前回、「承認欲求は貯められない」話を書きました。今日はその続きです。承認欲が満たされない感じというのは「共感」や「共有」を求めたのに、思ったよりそうされなかった時により強く起こるのかなと、これを読みながら思いました。
このエッセイの別の章「わからないくらいがちょうどいい」の中には、SNSで「みんなの知っているものが私も好きで、みんなの知っているような友達がいて、みんなの知っているような服を着る」そうやって、自分をデフォルメして共有すればするほど、本来の自分とは離れていく現象について冷静に綴られています。
共感と共有が時代のキーワードですが、求めすぎると自分が辛くなる。
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話は飛びますが、光野桃さんに「ミモザの日」にいただいた花束(写真はミモレのインスタより)。編集部員一人一人にくださったんです。感動。
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「ミモザは咲いている時間がとても短い」と光野さんに教わり、ドライフラワーにしてみようと。小分けにして家の日陰に吊るしてみました。
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10日ほど経過してだいぶいい感じにドライフラワーってきた!

光野桃さんからお花をいただいた自慢をシェアしたい、お花を愛でる余裕がある自分に見せたい・・・とかとか、己の裏の欲求をあげれば限りがありません(汗)。
でもそんな風に難しく自己分析しなくとも、家に帰るといつも綺麗な黄色のミモザが目に入るって幸せ!ということは、誰にも(家族にも)共有も共感もされなくても満足している自分に気づいて、足るを知るとはこういうことか・・・と。
誰かに共有したほど嬉しいことも時に必要だし、誰かに共有しなくても嬉しいことももっと必要、と思った次第でした。
良い日曜日を! ではではまた〜。
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