姫野カオルコさん『彼女は頭が悪いから』を慌てて読みました。以前から人に勧められて入手はしていたものの、帯には「私は東大生の将来をダメにした勘違い女なの?」のコピー。OGかつ博士課程の現役学生として、東大の環境も知っているけれど、被害者女性が叩かれやすいという女性へのハラスメントや性暴力への疑問も多いにあり、複雑な感情を呼び起こされそうで手がなかなか伸びませんでした。

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』/文藝春秋

今月、その東大でブックトークがされ、一部東大関係者から著者に対して東大の実態を捻じ曲げて描いているという批判があったようです。どうしてそのような批判が出てくるのでしょうか。東大関係者は本を読んで何を感じたのでしょうか。

OGとしてあの本を読んでどう思ったか?を聞かれ、さぞ読んだら腹が立つような東大の描かれ方がしているのだろうと思いながらもできるだけ先入観を持たずに読むよう努めました。

本の中で、被害者の女性主人公は、実際の強制わいせつ事件の被害者が世の中から非難された「東大生狙いだった」というようなある種の女性に対するステレオタイプが当てはまらない事例として丁寧に描かれています。一方で、東大生男子については基本的に加害者たちのみが登場し、彼らがやや東大生代表として一般論的に語られてしまっているところが散見されました。

たとえば、まるで人への思いやりや感情に「無駄」な時間を割いているような人は東大には受からないというような内容が何度も語られます。そして東大という看板さえあれば女性にモテるというような記述もあり、実態を知っている人ほど「いやぁ、そんな人むしろ東大の中でほんの一部だろうけどな」という感想は抱かざるを得なかったと思います。

なので、「こんな人間ばかりじゃない!」と言いたくなる気持ちは100%わかる。ただ、「こんな東大生、いませんよ!」と根本的にくつがえせないのは、東大関係者側も弱いところ。実際に最低の事件を起こした東大生がいる以上、この本を読んで、「東大生に対するイメージを悪くしている」と思う人が怒りの矛先を向けるべきは、小説の作者ではなく、実際の事件を起こした加害者であるべきでないかと感じました。

 

本来、小説に出てくる東大生がステレオタイプ的で現実にはこんな人ばかりでないと言ってしまえば、女子大生だってそうだし、出てくる慶應生、SFC生も皆そうです。そもそも小説に「男というものはこういうものである」と書いたときにそれにあてはまらない男性全員が怒りだすかというと、そうではない。この作家さんは小説内でそのように仮置きしてるのね、くらいにしか思わないのではないでしょうか。

にもかかわらず、どうしてフィクションである小説に対して東大関係者がその不正確性を批判しないといけなかったのか。

それは、やはりこの本が、実際の事件を題材にしたフィクションであり、実在の「東大」というものをめぐる世間の見方のいやらしさ、それを内面化してしまう東大男子、それにより東大男子の中でゆがめられる被害者側の姿……というループに対する重要な問題提起をした本だったからこそではないのでしょうか。

私自身、実際の東大とは異なりそうな描写があったゆえに、当初はあくまでも実際の事件は著者にとって本を書くキッカケでしかなく、基本的には架空のストーリーとして読んでいました。途中から裁判記録に出てくるような詳細がでてきてはじめて、この小説の重要性に気付いた節があります。

架空の、あくまでも小説の中の「東大」を扱っているのか、実際の「東大」を扱いたかったのか。もし実際の東大、実際の社会に対する問題提起であるのならば、逆に少し確認すればわかりそうな名数ミスや実態と異なる点があるのは、作家さんも編集サイドも若干わきが甘かったかもしれません。

本来真摯に内容に対して向き合うべき関係者に「あくまでも創作物なのね」と思わせてしまったとすれば、そこはもったいないなとジャーナリスト的視点としては感じましたが、だからと言ってこの強制わいせつ事件を題材に取り上げた意義は薄れないと思います。