日本の映画業界で、ようやく、本当にようやく始まった#MeTooと、あらゆるハラスメントをなくそうという動き。ぜひこの勢いを止めず、業界を少しでも刷新できたらと思うのですがーー勇気を出して声を上げた人への攻撃は相変わらずのひどさ。いわゆる「セカンドレイプ」というやつなのですが、そういうなんやかやを見ていて思うのは、攻撃する人たち(一次被害の加害者も含めて)が、「性暴力」とか「同意」とか「ハラスメント」とか「女性蔑視」とか、言葉の定義をまったく理解していないことです。なんでそうなっちゃうのかなあと考えたとき、思い出すあることがあります。

 

記憶が定かではありませんが、たしかベルリン映画祭が「男女賞をなくす」と発表した頃だったので、2年ほど前でしょうか。きっかけは数少ない私の映画業界の友人がフェイスブックでこのニュースについてのモヤモヤを投稿したこと。男女賞は「クオータ」の側面もあるので廃止するのがいいのか悪いのか……私もそんな風に思っていたのですが、投稿のコメント欄で盛り上がっていたのは別のことーー「『女優』という言葉がなくなるのは寂しい」という話。ジェンダー平等の流れの中で、韓国の公共放送に続き、NHKも「女優」という言葉の使用をやめたのを受けたものです。男性俳優は「男優」と呼ばないのは「俳優=男性」が前提だからで、女優は「下位」的な位置づけの言葉というわけです。

 

コメントを賑わしていたのは業界では知られた監督たちです。私は全く面識がなかったものの「これを放置するのはよくない」と思い、挨拶した上で「それは呼ばれる側が決めることでは」ととりあえず流れを切ることに。残念なのはそこにいた全員が「名前だけは知ってるめんどくせーフェミライターが絡んできた」的に、何もいずにすーっとコメント欄から離脱したことです。大の大人の、表現者なんだからさあ……と思わないでもないですが、まあその時に私が思ったことを今回は書いておきましょう。

さてなぜ私がこの状況を良くないと思ったのか。それはコメント欄に溢れる「女優」という言葉の持つイメージです。華やかで美しく、ある人は「永遠に汚れない処女」であり、ある人は「体当たり演技」を要求されてもひるまず(女優の伝説にはすでに「被虐に耐える」ニュアンスもあると思います)、欲望と羨望、憧れの象徴……そんな感じでしょうか。「それは違う! 女優というのは……」と言いたい人もいるでしょうが、ぶっちゃけここは何でもよろしい。つまりは「女優」という言葉が、妄想、ドラマ、伝説、神話を加味されがちな言葉だということです。

女性の役者さんには、こうした「(妄想込みの)女優」と呼ばれることに抵抗がある人もいるんじゃないかと思います。というのもこの妄想は、時に「女優のくせに」と反転して使われたりするからです。コンビニに行くジャージ姿を見られても(美しくあるべきなのに)、恋愛が発覚しても(清純な処女であるべきなのに)「女優のくせに」。「私の仕事は演じることなんですけど」という主張は伝説にかき消され、「女優は脱いでなんぼ」とか「男を知ってこそ女優」とか、俳優だったらまず言われないことを「ドラマティックな女優」の文脈で要求されたりもするでしょう。そしてもちろん「女性」ではないのに「女優」と呼ばれてしまう人が存在すること、「女優」と呼ぶことを当然とすることで、透明な存在にさせられてしまう人たちのことも、忘れてはいけません。

これによく似た性質を持つ言葉は、例えば「母」です。母の愛は無限とか、子供を産めば自然と母親になるとか、母は優しく包むものとか、母は聖なるものとかよく言いますが、そうした幻想や思い込み、固定的な役割論(つまりジェンダー)の押しつけが、そこから外れてしまう人を苦しめるのは言うまでもありません。つまり「女優」「母」とひとまとめのイメージでくくることは、女性の個々の主張や在り方=女性の人権を否定することにつながります。


根底にある「男に求められることが女の喜び」的発想


ここで興味深いのは、コメント欄の男性監督たちは、そうした妄想、伝説、ドラマを素晴らしいものと捉え、むしろ彼女たちを褒め、持ち上げ、あがめるために「女優」と呼びたいということです。悪意はまったくありません。だから「それは女性蔑視だからやめて」といわれると「わけわからん」となっちゃうわけですね。

でもその「褒めてる」の基準は誰目線か。例えば多くの男性は「男性から『きれい』『かわいい』と褒められ、恋愛の対象として見られ、性的な魅力があると思われることこそ、女性の喜び」と思っているのかもしれませんが、女性からしたらそうでない場合もありますよね。仕事場でそういう目で見られるのはうっとおしいだけだし、大して知らない人であれば不気味なだけ、「かわいい」で誤魔化されるのは嫌だと思ってる人も、「キレイよりも仕事ができる」と言われたい人もいるはず。

そして男性からのこうした関心は、「そういうのいらないんで」とお断りした途端に、「喜ばせてやろうとしたこっちの気持ちを踏みにじりやがって」と反転することもしばしばです。ネット上のセカンドレイプはこの典型なのですが、その発言の出発点に「男に求められることが女の喜び」というゴリゴリの偏見があり、そこから「同意はあった」とか「嫌がってなかった」とか「誘ってた」みたに認知がゆがんでいくわけです。

じゃあどうすればいいのか。できることはもちろんあります。些細なことを「まいっか」と放置せず、「それはいやです」「それはやめて下さい」と、冷静に、こまめに、しぶとく言い続けること。相手が望む存在にならず、自分が望む存在になること。件の投稿の件では、男性監督たちが離脱した後、別の見知らぬ女性が「私もそう思っていました」と会話に入ってきたのを覚えています。もちろんそれでも自分を蔑視し、偏見をぶつけてくる人はいなくなりはしないでしょう。でも少なくとも、彼らが公の場で、あからさまにそうできない空気は、きっとつくっていけるはずです。


写真/shutterstock

 

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