思考停止や麻痺は、強さじゃない


以前の記事で、学校生活で経験した様々な理不尽を書いたところ、某配信サイトでは「いろんな理不尽を学ぶのも学校」というコメントがいくつか付きました。そもそも、「理不尽」を「学ぶ」ということ自体がもう概念として成り立つのか? とツッコミたくもなりますが、なんだかこの社会って、理不尽なことを我慢して強くなれる、みたいな考えが浸透していますよね。

「理不尽」という言葉には、「道理に合わない」「筋が通らない」「矛盾している」なんて意味があります。筋が通らない、矛盾していることを受け入れる力って、一体なんなんでしょうか。そんな力、果たして必要なのでしょうか。なぁんて、素朴に考えてしまうんです。理不尽なことがたくさん起きる、理不尽な振る舞いをしてくる人がいるところで、耐えることって、本当に人を強くするのでしょうか? それは耐えるというより、「考えないようにする」「心や感覚を麻痺させる」というほうが近いのかもしれません。

ハラスメントが横行する職場を離れ、人を大事にする組織で仕事をするようになって実感するのは、「心理的安全性」が守られながら働くほうがよほど健全に成長できる、ということです。わからないことがあったら気軽に聞ける、頑張ったらちゃんと評価してもらえる、ミスをしても一緒に改善案を考えてくれる。そういう環境だと、自然と頑張ろうと思えるものです。そういう環境に身を置いてみて、初めて以前の環境の異常さを認識すると、早く見切りをつけ、辞めて良かった、と思えるようになりました。

 

震えながら開花を待たなくても、花は自分で育てられる


「理不尽な環境に耐えてこそ成長する」かといえば、そんなことはない、と今なら思えます。叱られない環境をメディアは「ゆるい」なんて形容したりしますが、理不尽な対人ストレスなんてなくても、仕事で負荷なんて自然とかかるものなんです。ちゃんと認められる環境だからこそ、半端な仕事はできないし、もっといい仕事をしよう、と向上心も湧きます。ミスをしたら怒られる、とビクビクするのとは全く違う次元で、ちゃんと緊張感は持ち、自分を成長させることはできるのです。

よく、大変な環境で忍耐を続けた人が、「あそこを潜り抜けられたから、これから何があっても頑張れる自信になった」と言うことがありますよね。確かに、苦しくても頑張れたという事実は自信にもなるでしょう。一方で、本当にそこで耐える必要があったかは別として、そうやって肯定しないと、やってられない部分ってあります。もちろん、一定期間耐えることで、意外と大丈夫になったり、嫌だった人のいいところが見えてきたりといったこともあります。あまりに短期間だと、見えないことの方が多いです。