ダメージ大の苦労はしなくていい

 

どんな環境でも、まず慣れるまでは身を置くということはやっぱり大切だとは思います。その一方で、耐えるに値するか、耐えて本当に大丈夫なレベルかは、見極めは非常に重要だと思います。

例えば、筆者は貧乏生活が長かったので、劣悪な住環境でかなりの年数過ごしてきました。その経験をもって、あの時の苦しみがあったからどんな環境でも耐えられるぜ、苦労万歳! とは1ミリも思いません。早く脱すれば良かった、何なら1日も経験しなくてよかったです。するべき苦労としなくていい苦労があるのです。

やはりポイントは心理的安全性が守られているかどうか、ではないでしょうか。ある程度選んだ環境で、心理的安全性が守られた上でする苦労と、どうしようもない環境で耐えるしかない苦労とではまるで意味が違います。

苦痛であればあるほど人は成長するわけでは決してありません。意味のある苦労はするべきでも、意味のない、むしろダメージになって回復に相当な時間がかかってしまう苦労はするべきではないこともあります。

 


逃げられる人は、危機管理能力の高い人


また、理不尽な環境に耐えるべきではない、耐えられない方が自然、と思うのにはもう一つ理由があります。自分の痛みにちゃんと気づける人は、他人の痛みにも敏感でいられる部分があるから、です。もちろん耐え続けて、かつ人にも優しい聖人属性の人もまれにいますが、中には耐えてきた自負があるからこそ、「それくらいで弱音を吐くなんて甘い」「自分は頑張ってきた」みたいに、他人に対して厳しくなってしまう人もいるのです。

自分の痛みに敏感な人は、他人の痛みにも敏感な人です。理不尽に耐え続けて心の皮が分厚くなってしまうと、他人の痛みにすら鈍感になったりします。理不尽に耐えると、心の弾力性を上げるというより、痛みを感じないように麻痺させている場合があるからです。

重ねてになりますが、逃げることは必ずしも悪いことではありません。理不尽な状況から逃げるのは、忍耐力のない弱い人ではなく、危機管理能力の高い人だ――。筆者はそう思います。


イラスト/Sumi
文/ヒオカ
構成/金澤英恵

 

前回記事「「人は叱られてこそ成長する」は嘘、叱る行為は自己満足でしかない。今すぐ「苦痛神話」から脱却すべき理由」>>