大誤算の夜
――なるほど……マンションを売ったら税金がバカにできないわけね。お店が軌道に乗るまでは家は賃貸にしようかと思ってたけど……あの二人が嫌がるかしらね。
私は珍しく税金や不動産のサイトを眺めて勉強していた。もはや私の頭の中ではお店のことは規定路線で、翔平や莉乃にはそのために何が何でも協力してもらうしかない。
「ねえお母さん? 今日の夕飯、カレーだけど、ルーの買い置きってある?」
ベッドで寝転がってスマホを見ながら「事業計画」を練っていると、莉乃が寝室に入ってきた。時計を見るといつの間にか19時。週3日パートをしていた頃は、莉乃に簡単な夕飯づくりを頼んでいたけれど、パートを辞めてからも莉乃が作ってくれる。最近では掃除をする気も起らず、部屋は荒れ放題だったが、ため息をつきながらも掃除をしてくれるできた娘だ。
「え? 棚にない? なければないなー」
「……わかった。買ってくる」
このマンションは都心のいいエリアだから、中学受験というのが盛んなようで、莉乃の友人は皆塾に通っているらしい。たまにおせっかいな母親から「莉乃ちゃん頑張り屋さんだし、勉強したいみたいよ、受験考えてみたら?」などと言われることがあったが、本当に余計なお世話。
女に必要なのはちょっとキレイな顔と、幸運なのだから。勉強なんて他にすることがない奴がやればいい。
その夜、カレーを食べている間も忙しくスマホで情報を集めていると、翔平が帰ってきた。「おかえり」と言ってみたものの返事はなく、彼はリビングの様子を一瞥すると溜息をついてお風呂場に行った。
マンションを交換してもらえると分かってから、彼の態度が悪い。もしかして不倫? だとしたら証拠のひとつも掴んで、頭を上がらなくすればお店の件もすんなりいくかもしれない。
私はまた妄想にふけっていて、翔平がリビングに戻ってきたことに気づかなかった。
「……美樹、話があるんだ」
「なあに? 新しい家の家具のこと? それだったらもうだいたい候補は決めたのよ……」
翔平は、私の言葉を両手で遮ると、1枚の紙をテーブルに置いた。
離婚届だった。すでに半分、記入されている。私は唖然として彼の顔を見た。そういえば最近「話がある」と繰り返していたが、どうせ大した話じゃないだろうと生返事をしていた。まさか離婚したいとでもいう気なのだろうか?
「心あたりがないって顔だな。そりゃそうか、何年も娘に面倒な家事を押し付けて自分はエステに買い物、ソファに寝転んでるような母親だもんな。家族なんて不要な君に異論はないだろう? 自分ひとりが可愛いんだから」
「なに冗談言ってるの? さてはあのマンション独り占めしたいのね!? そうはいかないわよ、夫婦の共有財産は離婚しても半分ずつじゃないの」
「あのマンション、俺が独身時代に買ったものだし、親の遺産と合わせてローンも結婚前に払い終わった。君の皮算用がどこまで通用するかな。そうそう、莉乃は僕についてくると言ってる。そりゃそうだ、家事も育児も放棄してる母親じゃあな」
話の途中で、莉乃がパジャマ姿でリビングに入ってきた。すたすたと冷蔵庫に寄り、水をごくごく飲むと、こちらを冷ややかに一瞥。そのまま部屋に戻っていく。いつの間にあんな目で私を見るようになったのか。
呆然としたまま、リビングを見回す。蛍光灯はひとつ切れていて、ろくに拭き掃除をしていないから、足の裏がべたりと不快にくっついた。
いつの間にか部屋から彼もいなくなっている。
しんと静まりかえったダイニングテーブルから、薄い紙が一枚、ひらりと床に落ちた。
平凡な兄と秀才の弟。双子の兄弟の運命の分かれ道とは?
夏の夜、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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構成/山本理沙
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