話せる理由
「……」
林様はちらりとロビーの時計に目をやる。一応、聞く態勢に見える彼の様子に、秋野様は「言って!」とばかりに大きく頷いてこちらを見た。
「実は、秋野沙織様が、林様のことがどうしても許せないと……なんとかして不誠実なお付き合いだったことを謝罪してほしいとおっしゃっているんです。いえ、信じられないお気持ちは分かりますが、これは本当なんです。
秋野様はそのことに傷つき、今でも囚われています。どうか林様、お一言でかまいませんので、心からの謝罪を、秋野様にいただけないでしょうか」
もはやホラー以外の何物でもない、私のセリフに、林様はしかし眉ひとつ動かさなかった。
「ひ、人でなし……! ひどいわ、仮にも付き合ってた女が事故にあって、幽霊になってまとわりついてるっていうのに、どうして? せめて怖がったり取り乱したりしなさいよ」
秋野様は、聞こえないとわかっていても、幽霊の身ながら地団駄を踏んでいる。
「林様……少しでも秋野様に申し訳ないとお思いでしたらば、何かお言葉を」
「お! ゆっこ、なんだよその量は。もう腹、一杯だろう?」
突然、私の話を遮るかのように、林様が立ち上がった。視線の先にはショップから戻ってきた今カノが。
「部屋にもどろうぜ~」
あっけにとられる秋野様に見せつけるように、2人はじゃれ合いながら引き上げていく。
「……秋野様。申し訳ございません、私が至らずに」
頭を深く下げると、秋野様は何かを諦めたように深くため息をついた。
「……佐倉さんの言う通りだわ。あの男、もう私のことなんて本当になんとも思っていないのね。佐倉さんの言葉にも、一切反応しなかった。私ばっかりが、恨んで、囚われてるのね。バカみたい……もう死んじゃったのにね」
「そうですよ、秋野様。もう秋野様は自由にどこへでも行けるんです。全ては心次第ですよ。大丈夫、もう全部忘れていいんです。貴方の魂は自由です」
秋野様は、僕の拙い必死の説得に、フフ、と初めて笑うと、涙をぬぐった。それから小さく手を振って、ゆっくりとホテルのロビーを横切っていく。幽霊なのに、堂々と、歩いて。
――良かった。一件落着か。
僕はほっとして、コンシェルジュカウンターに歩いていく。
「おっと……」
入ろうとして、カウンターにはすでにコンシェルジュが入っていることに気が付く。
僕がまだここに勤めていた頃、新卒で入ってきた、「生きている」スタッフの中井君。
5年前、僕は心筋梗塞で勤務中に倒れ、そのままあっけなく人生が終わってしまった。まだリニューアルする前のこのホテルの、コンシェルジュカウンターで。
だから、僕の姿は、誰にも見えていないし、声も届いていない。
もちろん、林様にも、今カノにもね。
――やれやれ、生きているコンシェルジュがカウンターに入っているんじゃ仕方ない。
僕はラウンジのほうにUターンして、ゆっくりと空いているソファに座った。
ピアニストが奏でるジャズが心地よい。
ひとは自由だ。たとえ体がなくなっても、魂はどこにだっていける。
とりあえず、僕はまだまだ、大好きなこの職場で、そっとみんなを見守りたい。
たまには幽霊のコンシェルジュが、役に立つこともあるのだ。今夜みたいにね。
塾講師が見た、奇妙な保護者の行動とは?
秋の夜長、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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構成/山本理沙
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