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雅子さまがロシア語を話せる理由〜モスクワでの幼少生活

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雅子さまは、英語ばかりでなくロシア語も堪能と言われています。そのルーツは、幼少期のロシア生活にありました。
「父の海外赴任には、家族全員が一緒に行くこと」という小和田家の教育方針のもと、外交官であるお父さまの赴任地、ロシアへ向かった幼い雅子さん。どんな生活を送っていたのでしょうか?

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瞬く間に寝言もロシア語で言うように


東京オリンピックの前年の昭和38年(1963年)12月9日、小和田雅子さんは東京・虎ノ門病院で小和田恆(ひさし)・優美子夫妻の長女として誕生しました。体重は3870グラム、身長51センチメートル。大きくて健康な赤ちゃんでした。

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生後約3ヶ月の雅子さま。自宅で恆さんと。写真/宮内庁提供

当時、雅子さんの家族は京王線桜上水駅から歩いて5分ほどの外務省官舎に住んでいました。そこは6畳と4畳半に台所がついた2DKの質素な公務員住宅でした。狭い2DKの部屋の中は、父・恆さんの専門書がぎっしり。
「家具よりも本のほうが多い住まいだった」
と、当時を知る人は語っています。

昭和40年(1965年)8月の終わりに、恆さんは旧ソビエト連邦の首都モスクワの日本大使館一等書記官として赴任することになりました。これによって、雅子さんの家族はモスクワに引っ越します。
雅子さんの家族が暮らす外務省の官舎は、モスクワのクツゾフ通り714の外国人専用アパートの11階にありました。雅子さんが1歳8カ月のころのことでした。

2歳の夏になると、雅子さんはモスクワの私立保育園に通い始めます。保育園では、ロシア人の子どもたちと一緒に過ごすのです。幼児の環境への順応は、驚くほど早いもの。小さな雅子さんは、自分が日本人なのかロシア人なのか、まったく意識していなかったようです。
母の優美子さんは、こう言います。
「その保育園の場所柄、いろいろな国の外交官のお子さんも混じっていて、朝の8時半から夕方5時までみんなでわいわいロシア語で生活しているのです。雅子は3カ月ほどでロシア語に不自由しなくなり、そのうちに寝言もロシア語で言うようになりました。それでも帰宅してからは日本語で話しているのですから、バイリンガルです」

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雅子さま2歳。モスクワにて。写真/宮内庁提供

モスクワ時代の幼い雅子さんをよく知っている人がいました。雅子さんの家族とモスクワで生活をともにし、雅子さんのお世話をしていたお手伝いさんの井上道子さんです。
「小和田さん一家にお会いしたのは昭和39年(1964年)の夏で、私はまだ16歳でした。当時、雅子さんのおじいさま(小和田毅夫さん)が新潟県の高田市(現上越市)に住んでおりまして、『今度息子が外国に出かけることになったので、誰か子供の面倒を見てくれる人はいないだろうか』と探していらしたのです。人づてにそのお話を聞いて、お世話するご縁ができました」
 
そのとき、新潟県出身の井上さんは、東頸城(ひがしくびき)郡牧村にある安塚高校牧分校の1年生で、中学時代の教師からのお声がかりだったといいます。
井上さんは、外国を知りたい一心で高校を中退し、東京の外務省官舎に住んでいた小和田家に入り、以来、モスクワ、ニューヨークと小和田家に付き添って家事を手伝うことになります。そして、昭和44年(1971年)2月、小和田家がニューヨークから日本に帰国するまでの7年間、生活を共にしました。
 
「雅子さんの愛称は『まーちゃん』。たちまちロシア語を覚えて、ロシア語の歌を歌って遊んでいました」
と井上さんは言います。

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