こじらせてると解ってる、でも言いたい「推しに認知されたくないオタク」の本音_img0
 

「認知」という単語を聞いたとき、あなたはどちらの意味を思い浮かべますか。「生まれた子どもを我が子と認めること」と思った方、大丈夫です、どうかこれからも健やかに人生を歩んでください。一方、「推しに自分の顔と名前を覚えてもらうこと」と思った方は確実に引き出しの中にペンライトが入ってる民族です。今度、オンライン飲みでもしましょう。

しかし、ひと口にキリスト教と言ってもカトリックとプロテスタントがあるように、認知に対する考えも人によって様々。大きく分けると、推しに認知されたい人間と、推しに認知されたくない人間で世界はできておりまして、かく言う僕は根っからの推しに認知されたくない人間です。

 


推しのツイートに「いいね」が押せない


握手会にチェキ会、ファンミーティングにバスツアー。今や若手俳優沼もこうした接触イベントは当たり前。足繁く通えば、いつしか推しの挨拶も「こんにちは」から「いつもありがとう」へバージョンアップ。顔と名前を覚えてくれるようになります。

この「認知」、大抵のオタクにとっては、一発で肌のツヤとハリがめちゃくちゃ良くなるやつ。どんな高い美容液よりも効果あるから、推しは喋るモイスチュアライザーなんじゃないかと思っている。

にもかかわらず、なぜ僕は「認知」されたくないのか。それはもう、高貴なる推しの目に自分のような薄汚れたモブキャラを入れたくないから、その一点に尽きるのです。

自意識過剰なことはわかっています。人を見た目で判断するような推しじゃないことも、推しているこっちがいちばんよくわかっている。だけど、生まれたときからすみっコぐらしよりすみっこで暮らしてきたこの根性、そう易々と変わるはずもなく。なんなら推しのTwitterもフォローするのが畏れ多くて、こっそりリストに入れて、草葉の陰から見守るタイプ。神様のような推しに「いいね」とか、タメ口すぎて絶対押せない。せめて「時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」ボタンとかにしてほしい。

仕事柄、面識がある推しの中には、ご丁寧にあちらからフォローをしてくれる方もいるのですが、それも本当申し訳ないというか、僕が天才ハッカーなら今すぐ推しのアカウントにログインして、そっと自分のアカウントをミュートにしてる。

いろいろ紆余曲折あって、今では推しの名前も公言するスタイルでやっていますし、公言する以上、そこはもう推せるときに推せ精神でガンガン名前も出すし、相互フォローの場合はいいねも押していくわけですが、根っこの部分では「自分なんかが推すのは、推しにとって迷惑でしかない」思想が抜けないから、名前を出すたび推しの事務所に千疋屋のメロンでも送って謝罪の意を表明したい気持ちになっている。


突然のうちわタイムで僕は地蔵になりました


そんな自分のこじれすぎたオタク精神を再確認する事件がこの間ありまして。推しの舞台に行きましたら、なんと演出の一環でうちわとペンライトが持ち込み可だったわけです。当方、推しの舞台に駆けつける理由は、当然「推しが見たい」が1位ですが、鼻の差で「推しが数字を持っていることを証明したい」が2位につくタイプのオタク。

うちわの数=ファンの数ですからここは負けてられないなと。どこぞのプロデューサーが来ているやもしれません。ちゃんとうちわに推しの名前を入れて、ここにいるよと、この役者のファンはここにいるよと、青山テルマくらい繰り返しアピールしなければと、よくわからない使命感に燃えて、うちわ持参で劇場に殴り込みに行きました。

 
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