先月、ユニリーバ・ジャパンが自社の採用選考で履歴書の顔写真提出を不要にする、と発表したのは記憶に新しいところ。近年、こうしたルッキズム(外見を理由とした偏見や差別のこと)という概念は広く認知されつつあります。

外見ではなく、その人の内面を見つめようという考えに異議は一切ありません。むしろウエルカム新しい世界。生まれついてのものが原因で理不尽な目に遭ったり不当な想いをする人がひとりでも減ったらいいなと、本気で願っている。

ただ一方、こうした価値観の広がりの中で、ある種の後ろめたさを覚えるのです。容貌優れた若き男の子たちに一も二もなく「顔がいい」とのぼせ上がっている自分に対して……!


顔が好き。でも「イケメン」として消費したくないオタクの矛盾


とてもデリケートな話ではありますが、あえてストレートに申し上げると、特に若い俳優にとって見た目がひとつの有力なアドバンテージになるのは、否定しがたい事実。実際、推しを最初に好きになる入口が「顔」という人も多いでしょう。

「推しの顔が好きすぎて語彙力死ぬ」問題をライターの僕が本気で考えてみた【ライター横川良明】_img0
 

新人俳優の多くがまず「イケメン俳優」として売り出され、アイドル的な人気を獲得することでポジションを確立していくのが今の芸能界の成功モデル。見た目の良い男の子たちが増えるのは正直に言うとありがてえの一言なのですが、でもそれを良しとすることで少なからず自分もルッキズム的な考えに加担しているのでは……という罪悪感にかられるわけです。

 

また、自分が「イケメン」として消費されていくことに抵抗を感じる若手俳優の声もよく耳にします。俳優という職を選んだ以上、演技で評価されたいと思うのは、ごく自然なこと。それが、どうしても容姿先行な売り出し方をされたり、世間の反応も見た目に関するものばかりだと、心がくすみそうになるのも無理はありません。

推しを安易に消費したくないというのは、いちオタクとしての切なる想い。しかしながら、顔の良さとは百人一首の一枚札のようなもの。「む」と聞こえた瞬間、「きりたちのほるあきのゆふくれ」に飛びつくように、推しを見るや「顔がいい」と口走ってしまうのがオタクの習性。その抗いがたい条件反射と、人の価値を美醜に置くような自らの言動の間で葛藤する毎日です。

そもそもこの「顔がいい」というフレーズ。気持ちとしては見た目だけを指しているのではなく、「演技もうまいし歌もうまいし踊りもうまいし面白いし声もいいし性格も優しくて周りに対して気が遣えて礼儀正しくて男気があって、なのにちょっと抜けてるところがあって、そのポンコツさも含めて全部いとしい無理」という推しに対するあらゆる賛辞が脳内で核分裂を起こした結果、「顔がいい」しか出てこないというのが実態だったりするのですが、そのありあまる行間を推しに察してくれというのも勝手な理屈。なので、ここはひとつちょっと推しの褒め方についてライターという立場から考えてみたい。

 
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