歌手であり、ダンサーであり、女優であり、そしてサッカーの解説をしたらプロ並み!そんな驚くほど多様な顔を持つ小柳ルミ子さん。今年、68歳。そして芸能生活50周年を迎えました。
実は宝塚を辞めての芸能界入り、アイドルからヌードへの挑戦、歳の差&格差婚、事務所からの独立など、今や当たり前となっていることでも、当時はタブー。社会の逆境の中、自らの意思で道を切り開いてきた、時代の先駆者でもあるのです。
なぜ小柳さんはずっと第一線で輝き続けられているのか。その50年を振り返りながら、小柳さんの生きる哲学に迫りました。

 

小柳ルミ子
1952年7月2日生まれ。福岡県出身。15歳で宝塚音楽学校に入学。首席で卒業後、芸能界入り。1971年に『わたしの城下町』で歌手デビュー、最優秀新人賞を受賞。その後、『瀬戸の花嫁』、『星の砂』、『お久しぶりね』など数えきれないほどのヒット曲を世に送り出し、日本歌謡大賞など多数受賞する。1982年より女優活動をスタート、映画『誘拐報道』で最優秀助演女優賞、83年には主演映画『白蛇抄』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。1989年にバックダンサーだった大澄賢也さんと結婚。2000年に離婚。サッカー知識が深いことから、最近はサッカー解説などでも活躍している。公式ブログはこちら

 

 

子供の頃から歌手を目指して……


昭和27年。福岡の地に生を受けた小柳ルミ子さんは、幼い頃から歌手になることを目指し多数の習い事に励む日々を送ります。クラシックバレエにピアノ、タップダンス、モダンダンス、日本舞踊、三味線、歌と習字……。
そして15歳のとき、さらに芸能スキルを磨くべく宝塚音楽学校を受験します。その競争倍率たるや、何と40倍。しかも小柳さんは宝塚の舞台を一度も見たことがなく、そのハンディは絶大。……が、多くの受験生が一度か二度は落ちて再挑戦という中、小柳さんは初挑戦にして一発合格!晴れてスターへの一歩を踏み出したのでした。

「でもね、その寮生活がとにかく辛くて。私は15歳で入学したんですけど、宝塚って19歳まで受験ができますから、同期のほとんどは年上なわけです。しかも私はクラスの委員に任命されたものですから、15歳の私がお姉さん方を引っ張っていかなくてはいけなかったんですよ。それはもう大変で。皆、言うことを聞いてくれない。だけど人に注意をする以上、自分は正しく生きていないといけない。だから毎晩のように母に電話していました。
でもね、この母がまた厳しくて。泣きながら『もう帰りたい』って言うと、『あ、そう。嫌ならやめれば?』とだけ言ってガシャンと切るんです。再ダイヤルしても『自分で決めなさい』、ガシャン。本当に、15歳でいきなり社会に放り込まれた感じでしたね」

今となっては「それが自分にとって良かった」と振り返ることができるものの、当時はかなりお母さんのことを恨んだそう。

「だって『自分で決めなさい』って言われたら、誰も頼れないじゃないですか。もうちょっと助け船を出してくれてもいいのに……と思いましたよ。でも母は私が子供の頃から、『ああしなさい』とか『それしちゃダメ』とか絶対言わなかったんです。
たとえば私はピアノが大嫌いだったんですけど、それを言ったときも『あ、そう。嫌ならやめれば』。宝塚を受けるときも辞めるときも、『自分で決めなさい』。
そうするとね、人のせいにできないんですよ。自分で考えて自分で決めたんだから、自分で責任をとらなきゃいけない。今思えば、きっとそれが母の戦略だったんでしょうね」
 

異例の宝塚首席卒業からの芸能界入り

 

この“自分で決める”という積み重ねは、宝塚を卒業するときに力を発揮します。
というのも小柳さんは何と、宝塚を首席で卒業しながら宝塚には残らない、という決断をしたのです。これはもちろん、異例中の異例のこと。

「実を言いますとね、私、宝塚2年目のときに、単身上京して渡辺プロダクション(小柳さんがデビュー時から18年間在籍していた事務所)の社長に直談判しに行ったんですよ。『私を歌手にしてください!』って。今思えばバカですよね(笑)。
でも私はとにかく歌手になりたかったから、時間を無駄にしている気がして居ても立っても居られなかったんです。今思えば、社長もよく会ってくれたと思うんですよ。いきなり押しかけてきた17歳の小娘に。そこはやはり宝塚ブランドだったんでしょうね。社長は『おお、君は宝塚か。じゃあ宝塚を一番で卒業してきたら考えてあげるよ』と言ってくれたんです。
そのときの私は一番をとる自信があったので、もうルンルンで帰ったことを覚えています」

しかし当然ですが、宝塚の引き留めは想像を絶するものでした。「宝塚にいればスターの道は約束されている」と。

「でも全く揺らぎませんでした。もともと宝塚に入ったのは、普通の高校で学問を学ぶより芸事を学びたい、そして芸能界に入りたい、という選択でしたから。私の中では宝塚は通過点だったんですよね。
たしかに宝塚に残れば確実にスターになれたでしょう。だけど私はもっと広い世界、もっと厳しい世界で生きたい、という思いが子供の頃からあったんです。そのために3歳の頃からクラシックバレエを習い、週に8つものお稽古ごとを頑張ってきたのですから諦めるわけにはいきませんでした」

【写真】清純派歌手時代の秘蔵カット
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