時代の潮目を迎えた今、自分ごととして考えたい社会問題について小島慶子さんが取り上げます。

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最近、楽しみにしているドラマがあります。NHK総合で放送中の「恋せぬふたり」(全8回)。アロマンティック・アセクシュアルの女性・咲子が、同じくアロマ /アセクの男性・高橋と出会い、「家族(仮)」として共同生活を始めるストーリーです。NHKの番組サイトには「アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人を、アロマンティック・アセクシュアルと呼ぶ」とあります。

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©️NHK

互いの共通点を知り、ひょんなことから一緒に住み始めた二人は、次第に信頼関係を深めていきます。咲子と高橋の会話を見ていると、なぜか心安らぎます。それは相手へのケアとリスペクトが随所に滲んでいるから。今の世の中で、ケアとリスペクトで結ばれる人間関係は、実に得難いものです。上下関係や優劣の競争、価値観の押し付け、想像力の欠如……職場や家庭でも、安心できる居場所はなかなかありません。他人にどう思われるかと不安に苛まれることも多いですよね。

 

咲子と高橋は、日頃から
「恋しない人なんていないでしょ」
「男女が一緒にいればセックスしたくなるものだよね」
「結婚して子供を産むのが幸せ」
などの周囲の決めつけに困惑し、疲弊しています。そんな声に、ふつうって何?と悩む咲子。恋愛感情や性的欲求が実感としてわからないため、相手の言葉の意図が読みとれず、親しい人との間に誤解が生じてしまうもどかしさも味わいます。

高橋は、咲子との「家族(仮)」としての同居生活に否定的な周囲の人たちを見て「どうして、こういう人もいるんだ、こういうこともある、で話が終わらないのか」と苛立ちます。これには画面の前でうんうんと頷いてしまいました。選択的夫婦別姓や同性婚の議論でも言えることですが、誰かが自分とは異なる形で幸せになることは、自分が不幸になることではありません。ただ社会の幸せの総量が増えるだけです。そういう人もいるんだね、でいいのにね。

アロマンティック・アセクシュアルの実感はわからなくても、このドラマのストーリーに共感する人は私の他にもきっとたくさんいるでしょう。「なんで結婚しないの」「子どもはいつ産むの」などのお節介。気が合う人と一緒にいるだけで「怪しい」「あのふたり、できてる」などと噂される。めんどくさいですよねえ。

若い頃、仕事で知り合った男性の話が面白くて、もっと聞きたいなあと思うことがよくありました。でも連絡したら性的な意味で誘っていると思われるのではないか、周囲も「あの二人は怪しい」というのではないかと思うと、踏み出せませんでした。いったいこの若い女の見てくれで、どうやったら「そうではない理由」で男性に会いたいことを信用してもらえるのだろう、男の外見だったら誰もそんな詮索はしないのになと、無念でした。まあそんなこと気にせず連絡すればよかったんですが、この万物恋愛変換社会どうにかならんかなと、心底鬱陶しく思ったものです。

ドラマにはそんな鬱陶しい人がたくさん出てくるので「うわあ」と悶えつつ、自分もこれまでに他人に「ふつう」を押し付けるような考え方をしていたかもとハッとすることも多々。咲子が全く無自覚に高橋のセクシュアリティを本人の同意なく他人に話してしまう(アウティング)など、ドラマには誰もがやりかねない、いろんなあるあるが描きこまれています。

「恋せぬふたり」を企画したのはNHKの30代前半のスタッフだそうです。アセクシュアルの人の取材などを経て、これまで自分たちがなんとなくいいものだと思って作っていた恋愛ドラマで、存在を否定されたように感じる人もいるのかもしれないと思うに至ったのだとか。ドラマを作る人の「ふつう」を疑う気づきがこうして形になったのは、よかったなあと思います。人はメディアを通じて、知らず知らずに価値観や振る舞いを学習してしまうものだからです。

1990年代に10代から20代を過ごした私は、当時の日本の過剰な恋愛中心主義と性消費文化の中で育ちました。テレビも雑誌も男女の恋の話が盛り沢山で、深夜番組では風俗情報。電車の中では中年男性がヌード写真入りのスポーツ新聞を広げていました。人を測る物差しは、モテ。テレビをつければ「24時間365日、恋してなくちゃ人じゃない」と言わんばかりのトレンディドラマブーム。これが日常だったので、かなり認知が歪みました。恋と結婚が人生の至上命題で、女の体はエロ資材! という思い込みから、なかなか自由になれなかったのです。あれは実に窮屈で残酷な価値観でした。

私は恋をするし、性欲もあります。でも当時、それを語る言葉があまりにも画一的だったことを残念に思います。もしもあの頃、人との間に生じる様々なつながりを豊かな言葉で学んでいたら、もっと自分のことも相手のことも大切にできたのではないかと思うのです。その学び直しには、うんと時間がかかりました。
今でも日本の社会には、なんでも色恋やセックスに結びつける習慣が根深く残っていますよね。セクハラをセクハラと理解できない人は、この20世紀の負の遺産を引きずっているのでしょう。

そうそう、最初は見ていてイライラしたのに、途中から好きになった登場人物がいます。カズくんという、咲子とちょっと付き合ったことがある同僚です(もっとも咲子は「付き合う」こと自体に違和感が否めず、関係は長続きしなかったのですが)。カズくんは「ふつう」の思い込みに囚われているので、同居を始めた咲子と高橋にいちいちウザい詮索をします。でも同時に彼はとても素直ないいやつで、高橋とも仲良くなります。そして次第に、カズくんが咲子のことを本気で思い、ちゃんと知りたいと思っていることがわかってくるのです。

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©️NHK

人が人を理解することは、簡単じゃありません。もしかしたら誰かを理解することなんて永遠にできないのかも。でも、咲子のことを懸命に知ろうとしているカズくんの姿には、尊いものを感じました。ジャッジすることなく、ただ「あなたを知りたい」って、もしかしたら一番親密な感情かもしれません。たとえちょっと的外れでも、望むような関係を築くことが叶わなくても、互いを大切に思いあう間柄は、いいものだなと思います。

ドラマの行く末は分かりませんが、私はまた月曜日が楽しみでなりません。まだ名前のない関係を模索する咲子と高橋さんと一緒に過ごしているときは、なんだかこの世が素敵なところに思えてくるのです。
 


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