笑ったり、平気な顔をしていることで一緒に空気を作ってた


ではその場の空気を作っているものは、いったいなんでしょうか。井上さんは続けます。

「書いてみて思ったのは、私自身、セクハラを容認する空気に『加担したことはない』とは言えないな、ということです。ある状況で笑ったり、平気な顔したりしていることだって、あれもそうだったんだ、あれが加担してるって事だったんだ、っていうのはわかりました。映画や演劇業界のことだって、たとえばインタビューなどで『監督にボロボロにされて、でもそのおかげでいい演技ができました』という俳優の言葉を、私たちは素晴らしいことのように思ってきたわけですよね。特定のコミュニティに属する人だけの責任ではなく、私たちが普通に暮らしてる世界全体の問題でもあるんです。いちいち言うのも面倒くさいし、言えばその場が凍り付くこともある。この程度の違和感だったら黙っていよう、適当に合わせておこう。被害者たちーー例えばそれが押し出しが強く、社会的地位を持った人であってもーー『おかしい』と言えないのは、そういう人たちがハラスメントが容認される“場”を作っているということなんです」

小説には、ある人物が動物園で出くわす、子連れの夫婦らしき男女を巡る小さなエピソードがあります。「睡眠時間を削って頑張ったってウチには1円も入らない。わかっててやるのか」と責め立てる男性を、女性は無視して子供をあやしています。起こっていることは明言されませんが、母親以外でありたい女性を許さない男性の在り方が、ストレートに感じられるセリフです。

「わかりやすいセクハラ、性暴力、ミソジニー(女性嫌悪)ではないにしろ、それらが染みついた土壌の中で私たちは生きてるんですよね。もちろん状況は、以前より悪化してはいないと思うんです。飲み会で料理を取り分ける女性の存在を『華があっていい』と褒める男性がいたら、SNSで『おかしい』と言う人もいるし、少なくとも俎上に載るようになっているわけですから。とはいえ私だって、女性が自分ひとりの飲み会で、目の前に料理があったら取り分けてしまうかもしれない。『取り分ける人=気が利く素敵な女性』というのが普通になっている社会で生きてきたから、それが何かおかしいことに気づけないんです。社会人になった娘さんに『飲み会ではみんなにお酌して、料理はすすんで取り分けるのよ』っていう親御さんだって、まだまだいると思うんですよね」

 


女扱いされないことに傷つくのは、女としてしか見られてこなかったから


作品には世の中のミソジニーに苛立ちながら、自身もミソジニーを抱える女性たちが多く登場します。例えば、自分を「えみちゃん」と呼んでくれる月島を崇拝し、その釈明にモヤモヤしながらも、被害者を攻撃する年配女性、加納笑子。例えば、別の俳句講座で主宰者のハーレムを作りながら、彼の若い女性へのセクハラの片棒を担ぐ中年女性、池内涼子。例えば、新人作家時代に結婚し専業主婦になった、セックスレスの月島の妻、夕里。誰かに認められることを欲する彼女たちは、無意識に「主体的に生きること」を奪われている、もしくは放棄しているようにも見えます。井上さんが、自分自身に、そして読者に、「こういう人のことをどう思う?」と問いかけながら作り上げたキャラクターたちです。

「『主体的に生きているか』なんてなかなか考えませんけど、『自分ってなんなんだろう』っていうのは、男女を問わず誰もが考えることだと思うんです。でも女性の場合、一個人の前に“女”で一括りにされちゃうことが多いんですよね。『女性が一人いると華やかでいいね』とか。言葉で明言されなくても、周りの空気にそう思わされる経験は、みんなあると思います。最初は『女だ』って言われることで幸福を感じたりもするんですよ。でもそれがある年齢になると、突然『お前はもう女じゃない』と言われてしまう。女扱いされないことに傷つくのは、やっぱり『女だ』としか言われてこなかったからなんです。ならば『お前は女だ』に対して『女ではなく、井上荒野だ』と言っていかなきゃいけない。そういう風に思って生きてたほうがいいような気がします。もちろん『私は自分として生きている』とか『女扱いなんてされたことはない』という人もいるでしょう。でもそれは意外と慣らされて、刷り込まれて、そう思わされているようなところもあるんじゃないかなと。自分として生きるなら、それをいつも疑うこと。世の中に対しても、自分自身に対しても、出来合いの何かを疑うことがすごく必要なんじゃないかなと思います」
 

井上荒野(Areno Inoue)
作家。1961年生まれ。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞、2008年『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞、18年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。『潤一』『あちらにいる鬼』など映画化作品も多数。

性暴力の加害者に「誰でもなりえる」とは言わないが、誰もが加担しているかもしれない【井上荒野】_img0

<書籍紹介>
『生皮―あるセクシャルハラスメントの光景―』

井上荒野 (朝日新聞出版社)
¥1980

小説講座の人気講師がセクハラで告発された。

桐野夏生さん激賞
「この痛みは屈辱を伴っているから、
いつまでも癒えることはないのだ」

***

皮を剥がされた体と心は未だに血を流している。

動物病院の看護師で、物を書くことが好きな九重咲歩は、小説講座の人気講師・月島光一から才能の萌芽を認められ、教室内で特別扱いされていた。しかし月島による咲歩への執着はエスカレートし、肉体関係を迫るほどにまで歪んでいく――。

7年後、何人もの受講生を作家デビューさせた月島は教え子たちから慕われ、マスコミからも注目を浴びはじめるなか、咲歩はみずからの性被害を告発する決意をする。

なぜセクハラは起きたのか? 家族たちは事件をいかに受け止めるのか? 被害者の傷は癒えることがあるのか? 被害者と加害者、その家族、受講者たち、さらにはメディア、SNSを巻き込みながら、性被害をめぐる当事者たちの生々しい感情と、ハラスメントが醸成される空気を重層的に活写する、著者の新たな代表作。
 


撮影/掛祥葉子
取材・文/渥美志保
構成/川端里恵
 

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