「え? だめ? ……でも、雨が止めば、きっと」
たしかにまったく動かなくなってしまった車の前方を、伸びあがって見てみる。スコールは長くは続かないから、雨さえやめばそのうち動くはずだけど……。
「この先の小道を入ったところに私の家があります。ちょうど妻が、夕飯の支度をしている頃です。きっと驚かれるほど簡素な家ですが。よろしければそちらに寄りましょうか?」
そんなことをサムットさんが言うのは初めてだったから、私は目をまるくする。郊外に住んでいるとばかり思っていた。まさかそんなにご近所だったとは。
「え? あの、急に押しかけると、奥様にご迷惑でしょうから」
彼の真意がつかめず、私はもごもごと言いよどんだ。
「大丈夫ですよ、妻は大歓迎。いつもご主人様と奥様の話をすると、嬉しそうに聞いています。今夜、ご主人様はご予定がおありでしょうから、奥様さえよかったら私の家で夕飯でも食べていってください。ごく普通の家庭料理ですが。妻はなかなか料理上手なんです」
サムットさんは笑顔で、こちらを振り返る。フランクで、あったかい声音だった。
「気が進まない会には、いかなくて大丈夫」
その言葉は、私の胸にストレートに刺さる。
「……そうでしょうか。でも」
大丈夫、とサムットさんはもう一度笑った。タイ人らしい、ニコニコの笑顔で。
……たまにはいいか。今日は土砂降りだし。うん、長い人生、そういう日も、あっていいのかも。
車はするりとしなやかに脇道にそれた。サムットさんはすいすいと細い道を進んでいく。
心地よい振動を感じながら、私は束の間、体をシートに深く預けて目を閉じた。
次回予告
機内で急病人が発生!ドクターコールに応えたのは……?
構成/山本理沙
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