社会現象になるほど売れていても、実際のファンはそう多くはないかもしれない
「推し」がいる人ならば、一度は経験したこともあるかもしれない転売。尾崎世界観さんの新作『転の声』は、ライブチケットの転売とSNSの狂騒を描いた作品です。主人公の以内右手(いないみぎて)は、売れることを渇望するバンドマン。常にエゴサーチばかりしている彼は、自身のバンドのライブチケットを巡ってSNS上に飛び交う【譲】と【求】のチェック(【求】が多く値段が上がっていることを祈って)に余念がありません。転売をテーマに作品を描いた理由を、尾崎さんはこう語ります。
尾崎世界観さん(以下、尾崎):もちろん転売はよくないことだとわかっていますが、“転売されること”にちょっと安心してしまう、それくらい求めてもらえているんだ、と思ってしまう自分を否定できないんです。その一方で、求める人が「なぜ欲しいのか?」を考えると、「誰かが求めているものだから」というのもあると思うんです。「このチケット取ろうかな」と迷っている時、本当に欲しいならその場ですぐ買うはずです。それなのに「まだ取れるな。余ってるのかな」と思うと、「今はいいか」と買うのを見送ってしまう。そのくせ、何日か後に売り切れているのを見て「あの時買っとけばよかった」とすごく後悔したり。いわゆる「売れているもの」だって、ある一定のところまでは本当に「求めている人」が買っていても、そこを超えて社会現象にまでなると、その現象自体に乗っかりたい人が出てくる。だから実際のファンの数はそんなに多くはないかもしれない。表現する側の人間としては、そんな風にいろんなことを考えます。
ライブチケットに定価以上のプレミアがつくことは、まさに「求めてもらえている」証拠なのですが、実のところ小説が描いているのは、その逆流です。「いいライブ→チケットにプレミアが付く」が通常の流れであるなら、「プレミアで価格が高くなったライブ→感動できること間違いなし」というような。そうなった時、チケットに付いたプレミアの正体は一体何でしょうか。「ライブやアーティストの本質=音楽そのもの」と言いたいところですが、単に「バズる仕掛け」の結果でしかないのかもしれない。
本来の価値とは無関係な別の価値のみが果てしなく肥大化していく様子を皮肉る物語は、その究極として「社会現象となった無観客ライブ」を提示します。尾崎さんが「無観客ライブ」に思い至った背景には、2つの理由があります。ひとつはコロナ禍で自身が行った無観客ライブの経験。
尾崎:あの時の異様な感じが、自分の中に強く残っていたんです。表現はもちろんしているし、歌も歌う。見られているのも感じるけれど、そこには観客がいない。自分を見つめる無数の監視カメラによって、こっちの何かが吸い取られていくような感じがしたんです。お客さんが目の前にいるライブなら、こちらが人間としての自分を差し出し、それを受け取った観客が反応する、そんなやりとりがあると思うんですが、無観客ライブの場合はこちらだけが一方的に差し出していて、向こうからは何ももらえない、そういう怖さがあったんです。
もうひとつの理由は、とりあえずさておき。この小説の中の「無観客ライブ」は、私たちが想像するそれとはかなり異なるものーー客がいないだけでなく配信もなしで、アーティストは歌わないどころか舞台に立つこともない、というものです。その部分のみを聞くと当然「?」となるのですが、今っぽい胡散臭さ満点の興行師と、SNSでバズらせるその手腕によって、プレミアが付いたチケットが飛ぶように売れてゆきます。
尾崎:書き進めていくうちに、チケットを買ったのにライブに行かないという行為が、行く人のそれ以上に、アーティストに対する何かしらの意思表示のように思えてきたんです。実際にこの本が出た後、「自分も納得いかないことがあって、チケットを買ったのにあえて行かなかったことがあるから、この気持ちがわかる」というSNSの投稿を見て。アーティストの活動に思うことがあった時に、あえて空席を作ってやろうという。そういったチケットを買うか買わないか、全国ツアーの全会場に行く、今回はあえて行かないなどの、様々な意思表示。そのアーティストを好きだという気持ちにもいろんな種類があると思うんです。
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