でも、一番蘇るのは、同級生との、何百、何千、いや多分何万時間にも及ぶ「おしゃべり」だ。女子校では異性を気にせず、性別を超えた”飾らない自分”を曝け出し、人間関係もおしゃべりも、驚くほど本性丸出し。休み時間は、男子がいると入りがちな茶々も入らず、御髪を直す必要などもなく、しかも関西弁(神戸弁)で「アホちゃうん」とか言いながら、ポンポンとすごいスピードで、シームレスなおしゃべりが繋がっていく。
「〇〇と言えば、こないだな」と次々と横滑りするように話題が変わり、会話に相当の情報量が凝縮された。言いたいことを歯に衣着せずに言い合い、本当によく笑い、時に傷つけ合い、たくさん泣いた。考えてみれば、この女子校ならではの、毎日の”弾丸おしゃべりトレーニング”が、今の私の基礎を作ったのではないか。
子ども時代の多くを英語圏で過ごした私が、日本語で社会生活を送れる大人になったのは、この時代があってこそ。アナウンサーとしての基盤、それに、今年で丸13年になるラジオパーソナリティとしてのトークの基礎も間違いなく、この制服を着て育成された。
加えて、私には兼ねてから「世の女性たちの味方になりたい、
50代からの「思い出」の処し方は、これが大事だと感じる。つまり、懐かしい、にとどまらず、歩んできた道を振り返り、今の在り方を再評価するきっかけにすること。思い出は、50代からの暮らしの原動力となる考察をするための、対話相手になってくれる。
そういう意味で、私に疑問を投げかけてくれた思い出もある。それは、小学校6年生の時の「タイムカプセル」だ。当時流行っていたように思う。小学6年のクラスで、小さな紙の箱を組み立て、思い思いに詰めた。それを、担任のS先生が大切に保管してくださっていて、数十年後のクラス会で持ち主に返してくれたのだ。
手のひらに乗るくらい小さな箱。ワクワクして開けたが、中身は「なぜこんなものを入れたのかまったくわからない」という、呆れるほどのガラクタばかりだった。何処のものかわからない砂、人形用の靴の片方だけ、小さなネズミが付いた洗濯バサミ、「すみよしせい子」と名乗って書いた歌詞みたいな紙切れなど。笑ってしまった。
考える種をくれたものが、一つだけあった。紙箱の外側に、各々が鉛筆で書き込む欄がいくつかあり、その中でも「大きくなったら」という欄に書いてあった自分の言葉。
「かわゆいママになりたい」
そんな風に私は思っていたのか。ショックだった。
幼稚園の頃はペット屋さんとかケーキ屋さんと言っていたのは覚えているが、小6で「ママ」と思っていたことは、感覚すら思い出せない。まるで「子どもの自分」という、別人物と向き合っているような気持ちになった。きっと母が大好きで、家族との日常が楽しくて、自分も将来は母のように自分の子どもと過ごしたい、可愛がってあげたいと、何の迷いもなく、そしてそうなるであろうとピュアに疑いもなく、考えていたのだろう。
でも、大人の私は、子どもの自分のその夢を、結局叶えてあげられなかった。胸がチクっとした。大人の私も、かなり最近までは“ママになりたい”と思っていたのだ。でも、人生思い通りにいかないということ。そして、あるところにエネルギーと時間を注ぐと、他でエネルギーと時間が足りなくなるということは、一回ここまで生きてみないとわからないことだった。人生とは、選択と決断を毎日くり返し、その結果切り拓いてきた自分だけの歩みを、いかに「これでよかったのだ」と思えるか、なのだ。
そんなこと言ってもわからないよね、ごめんね、子どもの自分。でも、私は50代を元気に歩んでいるよ。後悔がないわけじゃないけれど、一歩一歩、その時々の自分にできる精一杯で取り組み、納得しながら進んでいるからね。そして、これからもそうしていくって、約束するから。
前回記事「【50代からの趣味・住吉美紀】自分の結婚式で弾き語り失敗!楽器が苦手な半生を経て始めた「ウクレレ」が今、こんなにも楽しい理由」>>
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