平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。


前編・中編のあらすじ 薫は離婚後、近所の小さな歯科医院でスタッフとして働いている。院長の諒太は温厚で優しいが、歯科は再開発の波に乗り遅れてさっぱり儲からない。それでも丁寧に2人で診察している。ある雨の夕方、母娘がやってくる。6歳の娘の虫歯を治療するが、母親は保険証がないから自費診療を依頼。「お代はいつでもいいから治療が終わるまで通ってください」という諒太の言葉に、母親は感謝した様子だったが、翌週、ふたりは来なかった。
それから1年。同じ冬の雨の夜、あの時の娘、愛理がひとりでやってくる。「お母さんと私は逃げていて保険証がなかった」と事情を語りはじめ……?


前編はこちら「先生、この子保険証がないんです……」雨の夜、歯科医院にとびこみできた親子。歯が痛いと訴える幼子に医師が言った言葉とは?>>

中編はこちら「お母さんは私と逃げたけれど...」保険証がない母の哀しい事情。雨の夜、再びやってきたのは...>>
 


第96話 長い借用 後編

「お母さん、ここに来た?」家出した母娘が離ればなれに。母を探す娘が最後の望みをかけて電話番号を託したのは…_img0
 

「それは大変だったね……あの、今、お母さんは?」

私が思わず尋ねると、愛理ちゃんは、口を横に引き結んで、何も答えなかった。保険証を裏返すと、住所は確かに、あの時お母さんが書いた隣町の住所だった。

「お母さん、ちゃんと次も来る予定だったの。でも倒れちゃって、救急車で運ばれて来たくても来られなかったの。そのあとも私が場所、わからなくて」

「倒れた!? うんうん、そんな大変なことになったら歯医者さんに来てる場合じゃないよね。その後お母さんは大丈夫……?」

「長く入院したの、頭の中で血が出ちゃったって。お母さん私と家出してからいっぱい働いて無理したから。リハビリ病院てとこから半年前に退院したってお父さんとおばあちゃんが話してた。でもどこにいるかわからないんだって」

「ええ!? それじゃ愛理ちゃんは今お父さんと暮らしてるんだ? 大丈夫? お母さん、家出したっていったけど、愛理ちゃんはお父さんにいじめられたりしてない!?」

瞬時に想像力が膨らんで、頭の中で弾き出された状況におののき、思わず尋ねた。