平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
そっと耳を傾けてみましょう……。

 


第94話 長い借用 前編

「先生、この子保険証がないんです……」雨の夜、歯科医院にとびこみできた親子。歯が痛いと訴える幼子に医師が言った言葉とは?_img0
 

「先生、今日の19時の時田さん、キャンセルだそうです。その前は18時の山本さんなので、彼女が最後の患者さんでOKですよね!?」

「おお、時田さんキャンセルですか。セラミック、できるだけ早く入れたほうがいいから、次の予約は多少無理しても早めに入れてあげて。診療時間は19時30分までだからね、まあそこまでは開けておこうよ、急に歯が痛くなる人がいるかもしれない」

「……先生、無理しなくても、来週も予約はスカスカですから大丈夫です」

もしかして18時半で終わり? という期待が消えて、私はちょっとがっかりしつつ時田さんのカルテを来週の診察予約ラックに移した。

駅前の再開発で人の流れがかわり、50年前からここで開業しているこの白石歯科医院はすっかり閑古鳥が鳴いている。

先代である諒太先生のお父様の頃は、町の歯医者さんとして連日予約でいっぱいだったらしい。でも先代が亡くなって、諒太先生が35歳でこの医院を継いだとたん、近隣にタワーマンションがいくつも建った。その1階にきれいで最新の機器を備えたデンタルクリニックが3軒。

駅から濡れずに行ける、託児ができる、ホワイトニングの回数券がある、私と違って若くて可愛い歯科助手がいる、などの理由で若いひとはそちらに行き、諒太先生のとことに来るのは昔からこのあたりに住むシニアばかり。

保険診療のひとがほとんど、というか諒太先生がそれで収まるようにさまざま工夫していて、さっぱり儲からない。スタッフも私だけなので会計をしたり、合間に予約の電話に出たりと自分で言うのもなんだが大活躍中だ。

「歯が痛いのってさ、突然だからね、予約っていっていられないこともあるでしょう。この辺で夜まで開いてるの、うちだけだしね」

私は「残業はしないですからね」と言いながら、カルテを整理しはじめる。

まあ、そういう先生が嫌いじゃない。だからなんだかんだ、ここに3年も勤めている。30でバツイチになって実家に出戻り、つなぎのつもりで始めたこの仕事。

私はラッキーだったと思っている。薄給だけども、諒太先生とふたりのこの職場は控えめにいって素晴らしい職場だ。