カウナスは20世紀初頭、臨時首都として機能した時代もあり、そのせいでしょうか、こじんまりとしていながら都市としての風格が備わった町に見えます。「命のビザ」をユダヤ人たちに発給した杉原千畝氏が、日本領事代理として働いていた町でもあります。
当時領事館だった建物は、杉原千畝記念館(スギハラハウス)になり、当時のリトアニアの状況や、日本通過ビザをユダヤ人たちに発給することになった経緯、多くの当事者たちの証言のパネル、ビザを発行した杉原氏のデスクなど、非常に充実した展示を見学することができます。
杉原氏がリトアニアに赴任した時代は第二次世界大戦開戦直前。ドイツ、ポーランド、その他の土地を追われたユダヤ人たちは、一刻も早く新しい土地を目指さなければ命はない、そんな悲惨な運命を背負っていました。彼らが目指した北米、オセアニア、キュラソー島などへの足がかりとして、日本を通過するルートがあり、ユダヤ人たちは最終目的地を目指す為の日本通過ビザが必要でした。当時の日本の状況はドイツとの同盟関係を持っていた為、ユダヤ人にビザを発給するのは国に逆らう行為になり得たのですが、杉原氏は己の立場が危険に晒されるのを承知でビザを発行するという人道的な行動をとったのです。
杉原氏以外にも、当時のリトアニアにはユダヤ人たちに対し人道的な行動をとった人物が他にも複数いたことを忘れてはなりません。そもそもリトアニアがユダヤ人の入国を拒否していなかったことが大きく影響しています。その上当時のオランダ領事代理が、ユダヤ人たちの脱出ルートを切り開きます。オランダ領キュラソー島への入域にはビザを必要としないという許可証を発行したのです。ユダヤ人たちは、キュラソーまでの経由地としての日本の通過ビザを入手して、長い旅に出ることになった、という訳なのです、が、実はこのキュラソー島、人の住めるような島ではなかったと言います。ユダヤ人たちのヨーロッパ脱出の為の方便、仮初めの目的地だったのです。杉原氏はリトアニア人なら誰もが知る人物ですから、リトアニアを旅していると、幾度となく地元の人たちとの会話の中で杉原氏のことが語られます。「スギハラは我々リトアニア人にとってもヒーローです」そう言われた時は、非常に誇らしくもあり同時に、正義を持って生きなさい、そう背を押されるような気持ちになりました。
カウナスはアート、建築探訪にもうってつけの街です。国立チュルリョーニス美術館は、是非時間をとって立ち寄っていただきたい場所。リトアニアの国民的芸術家、音楽家、画家の両方の顔を持つチュルリョーニスの絵画作品が一堂に展示されています。絵画作品と音楽を同時に楽しめるホールがあり、チュルリョーニスの世界を全身で受け止める体験ができるのもこの美術館の素晴らしいところ。彼の絵画作品はパステル画が中心なので、なかなかその独特のタッチを印刷物や液晶画面では再現されにくいのです。だからこそ是非とも実物の絵の前に立ち、ゆっくりとその世界に浸って、繊細で力強い色彩を体感していただきたい。自然界の存在をシンボリックに表現していて、人が生きる上で抱く疑問に自然と答えを導くような、あらゆるヒントが絵の中に潜んでいるように見えます。チュルリョーニス自身は己の作品を解説するのを嫌い、観る人にそれを委ねることを望んだと言います。チュルリョーニスの絵は観るものの心を映す鏡になるのでしょう。
カウナスはモダニズム建築の多く残る町でもあります。
臨時首都であった時期、1930年代はじめから20年ほどの間に建てられた建築物群は、銀行、郵便局、市役所など。今でも現役で市民の生活と共存しています。当時の建築物は6000軒が現存し、41軒がユネスコ文化遺産に登録されています。随処にグリットを効かせ、広さ、大きさを強調しているので、空間に一度足を踏み入れると別世界が広がるような視覚的効果があり、天井や廊下の足元などからの光の取り入れ方も巧妙です。生活の中に舞台装置さながらの公共施設があるので、日常も少しドラマティックに演出されそうです。
\リトアニアはこんなところ/
人口 281万人
首都 ヴィリニュス
面積 65000㎢
国教 主にカトリック
言語 リトアニア語
通貨 ユーロ(2015年から)
【日本からのアクセス】
直行便はなく、成田・名古屋・関西空港から、ヘルシンキ経由でヴィリニュスまで毎日就航。乗り継ぎ含め12~13時間程度。
Comment