「レジ打ちの普通のおばさん」のただならなさ

 

山田詠美(Eimi Yamada)1959年東京都生まれ。85年『ベッドタイムアイズ』で文藝賞を受賞し鮮烈にデビュー。87年『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞、89年『風葬の教室』で平林たい子文学賞、91年『トラッシュ』で女流文学賞、96年『アニマル・ロジック』で泉鏡花文学賞と、文学賞を次々と受賞。その後も現代文学の旗手として旺盛な執筆活動を続け、2001年には『A2Z』で読売文学賞、05年『風味絶佳』で谷崎潤一郎賞、12年『ジェントルマン』で野間文芸賞、16年「生鮮てるてる坊主」(『珠玉の短編』所収)で川端康成文学賞を受賞。

 

物語がユニークなのは、彼女たちの「初恋」をリアルタイムで書かず、40代になった3姉妹の回想録として描いていること。冒頭に登場する次女・咲也は、お手伝いさんのいる裕福なお屋敷で暮らしていた少女時代から、どんな紆余曲折があったのか、スーパーのレジ打ちの「普通のおばさん」になっています。でもその頭の中には、いくつもの恋愛で「クラッシュ」された欠片がびっしりと詰まっていて、いまもキラキラと輝いています。

「普通のおばさんって、ただならないなと思うんですよ。地方で起きた刃傷沙汰のニュースって、たいてい普通のおばさんの恋愛だもんね。何の変哲もない、容姿だって“え、この人が?”って思うような、そういう人たちが色恋を繰り返すわけです。表からは見えないけれど彼女たちの中には、物語のようなキラキラやドロドロ、刃物のようなものだって、いろいろ詰まっている。大金持ちでも美人でもない、普通の人が、ひとたび恋の相手を見つけたら、すごく情熱的で魅力的な人間に見える。私が描きたいのは、誰もが持っているそういうものなんですよね」


恋愛は共感じゃなく、異質のものに価値観を壊されること


恋愛によって致命傷を負った経験は、自身の中にいくつもの「キラキラ(もしくはドロドロ)」を抱え込むことに繋がってゆく。それはSNSで「誰から見てもキラキラに見える」ことよりも、ずっと価値がある、人間の魅力だと山田さんは言います。実は、大金持ちの経営者と破局したあの若い女性タレントに、ちょっと注目しているそうです。「キラキラに見せていた人」が致命傷を負うことは、その傷を魅力的な「美しい傷」に変えられるか否かの分かれ道だから。

「その方法?それは自分で考えないと(笑)。ただ、恋愛においては分かってて繰り返してしまう過ちって、誰にでもありますよね。そういう繰り返しの経験によって、自分の致命傷が何なのか、どう手当てすればいいかもわかってくる。そういうのを見つけ出すのが、それぞれの<大人になり方>なんだと思います。まあ私の場合は、致命傷がありすぎてパンチドランク状態だけど(笑)」

「恋愛って、共感じゃなくて、異質の世界に出会ってびっくりすることから始まるものだと思うんです。その人との関係の中で、脳みそが破壊されたようになって、自分が当たり前だと思っていたものが当たり前じゃなくなってしまう。そういう経験は、恋愛のほかにはあまりないと思いますね。もちろん身も心も同時にクラッシュされる恋愛は、そんなに多くはない、そこにはカウントされない、合間の“隙間家具”のような関係もありますよ(笑)。でも初恋の時、たった一回だけってこともないんじゃない? 私の場合で言えば、上から5番目くらいまでは同程度の破壊力だったし、自分の未来に確実に影響していると思います」

恋愛小説は、自分の体験を言語化して追憶させてくれるもの


さて、レジ打ちの次女・咲也。「値段打ち間違えてるけど」と指摘する若い客に「申し訳ありません、うっかりしちゃって」と謝りながら、過去のクラッシュを今日も反芻しています。そこにあるのは喜びと優越感で、湿ったノスタルジーや悲壮感はまったくありません。もちろん、彼女とは違う道を行く姉・麗子も、妹・薫子も、力による「クラッシュ」を経験したからこその人生を、今も歩んでいます。

「あの時の恋は、今の自分のこの部分を形成してるんだな、人生に影響しているんだなと気付くのは、人生の後半が見えてきてから。渦中にいる時は分からなかったことが、時を経て経験を積むことで初めて分かる。そういう意味では読書体験にも似ているんですよ。あの時あの作家が書いていたこと、あの言葉が意味するものを、今ならわかるっていうーーもう後の祭りではあるけれど、それを追憶という形で胸にとどめるってすごく素敵なことだなと思うんですね。特に恋愛小説に限って言えばーー恋愛って傍から見てると馬鹿みたいでしょ(笑)。それを、馬鹿みたいじゃないんだって錯覚させることができる。そういう役割があるのは恋愛小説と詩だけで、だから今回は作品の中で詩も使っているんです。恋愛すると誰もが詩人になる。でも技術がない詩人って困りものじゃないですか(笑)。恋愛小説はそれを代弁してくれるもの。“自分が言葉にできなかったのは、これだった”と思ってもらえる作品として、読んでもらえたら嬉しいですね」

 

『ファースト クラッシュ』
山田詠美 著 文藝春秋


初恋、それは身も心も砕くもの。
母を亡くし、高見澤家で暮らすことになった少年に、三姉妹はそれぞれに心を奪われていく。
プリズムのように輝き、胸を焼く記憶の欠片たち。
現代最高の女性作家が紡ぎだす、芳醇な恋愛小説。

撮影/塚田亮平
取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(編集部)
 
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