酒井順子さんによる書き下ろし連載。前編の“流行り言葉”分析に続き、後編では、最近の若い人たち中心に広がる“感謝ブーム”と「ありがとう」の重みについて考察します。

 



感謝の言葉を連発する若者世代


平家物語の冒頭のイメージなどから、「無常」はどこか格好のいい言葉というイメージがありました。が、実際に無常の現場に立ってみると、それは決して格好いいものではありません。変化に必死に対応し、時には対応しきれずに呆然としつつ流されていく、それが無常。さらに年をとったならば無常の重みが何倍にもなってのしかかるであろうことも、予想がつくのです。

「ありがとう」という言葉に対する理解もまた、私の中では変化してきました。今、日本は空前の感謝ブームです。それも若者達の間で著しいようで、昔は親が死んだ後で墓に向かって「ありがとう」と言うのがせいぜいであった日本人が、今や小学生のうちから、
「産んでくれてありがとう」
とか、
「育ててくれてありがとう」
と、親に対して言うのが当たり前になっています。

 

そんな若者達を見ていると、親が瀕死の時に、耳元でそっと「ありがとう」と囁くことしかできなかった自分としては、「立派である」と思うのです。親御さん達の子育ての苦労も、報われているに違いない、と。

最近はアスリート達のインタビューを聞いていても、とにかく感謝に次ぐ感謝に終始します。勝因を聞いても「自分のせいではない。周囲に感謝」、敗因を聞いても「周囲に感謝して、次につなげたい」なので、試合そのものの感想を聞き出すのが、容易ではありません。

若者のSNSなど見ていると、文末に必ず「全てに感謝!」などと書いている人も、散見されるのでした。若手俳優のインタビューにおいて、
「世界にありがとうって、1日1回、言ってます」
といった発言を見たこともある。

感謝はもちろん良いことであり、「今時の若者って、若い頃から宗教者のようだ」と思うのです。しかし「全てに感謝」といった言葉を連発するとなると、反対に感謝の濃度が薄れはしまいか、という気はするのでした。

今時の若者と違って、私が感謝の意味を実感するようになったのは、どっぷり大人になってからでした。感謝ブーム到来よりもうんと前に子供時代を過ごしたため、「産んでくれてありがとう」も「育ててくれてありがとう」も、口に出したことはもちろん、思った記憶もない。親が自分を産んだことも育てることも、当たり前だと思っていたのです。

そんな私も「ありがとう」という言葉はしばしば使用しておりましたが、その意味を考えたことはありませんでした。恩義やら物品やら、何らかを他者から受けとった時に返す言葉として、機械的に言っていただけだったのです。

しかし大人になって古語辞典を引いていると、「ありがたし」は「有り難し」であり、つまりは「有る」ことが「難しい」、滅多にない稀なこと……と、記してありました。それを読んで私は「なるほど」と思ったのです。当たり前のように与えられている事物も、実は当たり前ではなく「滅多にない稀なこと」であるのだ、と。

そうしてみると、若者ではありませんが、全てのものが「有り難し」。先日、スマホが壊れた時も、その有り難みを実感したものです。スマホによって人と連絡を取ったり情報を得たり画像を撮ったりという行為を当たり前に捉えていたが、いざ壊れてみれば、自分では故障の原因は全くわからない。スマホが無いというだけで、やたらと焦燥感が募ってくる中で、「昔は、このような道具などなかったのだなぁ。ほとんどの人がスマホを持っているって、実は奇跡的な状態であることよ」という思いが湧いてきます。


穏やかな春の日差しも新米の美味しさも


一たび災害が起これば、このような感覚はさらに強まるのでしょう。水も食べ物の安全も、それまで当たり前に存在していたものは、多くの努力によって与えられていたことがよくわかる。……ということで、まさにそれらに対して心の底から「有り難い」と思うに違いない。

そんなわけで私の場合、若い頃の「ありがとう」と、今の「ありがとう」とでは、そこにこもる意味合いが、だいぶ違っているのでした。身体のどこも痛くも痒くもない日には、「有り難い……」
と手を合わせたくなるし、スマホを直してくれるドコモショップのお姉さん、水道管の詰まりを直してくれる水道屋さんのお兄さん、等々に言う「ありがとう」には、若い頃に機械的に言っていた「ありがとう」よりも、ずっと深い感情がこもっているのです。

さらには、おだやかな春の日差しやら新米の美味しさにも「有り難し」という思いが募って、心の中で手を合わせている私。「全てのものに神様が宿るって、こういうことなのね」と、順調に先祖の感覚に還っております。

子供の頃から「全てに感謝」ができるのは素晴らしいことではあります。しかし感謝は実は大人の特権なのかも、と私は思っているのでした。何かを失った時に、「有る」ことの難しさを理解して感謝の濃度がぐっと高まることを考えると、「全てに感謝」をアピールする若者もまた、この先に感謝の意味を再解釈する時が来るのではないか、と。

大人になって「有り難し」の意味を知ることは、「無常」とも繋がる感覚です。全てのものは、変わりゆく。だから全てのものは、ただ昨日と同じように「有る」ことすら「難し」。……ということで、ご先祖様達は万物に手を合わせていたのでしょうねぇ。

ヤバいもエモいもよくわからないけれど、このように年をとると、今までよく知っていたつもりの言葉の意味が、別方面から迫ってくるのでした。もっと年をとれば、さらにわからない言葉が増えるのと同時に、わかるようになる言葉も増えるのでしょう。一年また一年と、年をとることの「有り難さ」を実感すれば、それぞれの年齢をじっくりと噛み締めて生きたいものよ、との思いも募ってくるものです。 

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