酒井順子さんによる書き下ろし連載。今回のテーマは“若者言葉”。めっちゃ、エモい、ヤバい……使いこなすべきか、使わざるべきか。流行り言葉が醸し出す空気とその真髄を探ります。

共有と結束を強める“めっちゃエモい言葉”【「エモい」と「無常」・前編】_img0
 



若者っぽい言葉を使いたい衝動


10代の頃、私の言葉遣いは、決して褒められたものではありませんでした。
「これ、クッソまずくない?」
「ちょーまずーい!」
「これが500円もするって、ざけんなって感じだよね!」
「マジマジ!」
などと友達と言い合っていたわけで、まっとうな大人は我々の会話を聞いて、眉をひそめていたものと思う。

しかしある時、私の母親が何かを食べていて、
「これ、クソまずいわ」
と言うのを聞いて、私はそこはかとなく不快な気分になったのでした。若い自分が「クソまずい」と言うのは、よい。しかし母親という中年女性が同じ言葉を口にすると、妙に下品に聞こえるではないか、と。

 

私がいつも使用している下品な言葉が伝染して、母親は「クソまずい」と言ったのでしょう。が、私は、
「お母さん、『クソまずい』とか言わない方がいいよ。何か、大人が言うとクッソ品がない」
と、母親に忠告せずにはいられなかったのです。

今の私は、既にあの頃の母親よりも年上です。「クソ」という言葉は大人になるにつれ使用しなくなりましたが、しかし若者言葉をつい口にしたくなってしまった母親の気持ちも、わかるようになってきました。自分の中の若さの残滓が、「若者っぽい言葉を使いたい」という気分にさせるのです。

たとえば今、物事の程度の著しさを示すのに、若者達は「めっちゃ○○」との言い方をします。私の若い頃から延々と続いていた「超○○」という言い方のブームは、「めっちゃ」の台頭によって、やっと終了した模様。

「めっちゃ」は、関西方面に起源を持つ言葉のようです。女子の間で流行っている「うち」という一人称と同様に、関西の人が多く出演するバラエティ番組などから、広まっていったと思われる。

流行につられ、私もつい「めっちゃ」を使用してしまうことがあるのですが、
「めっちゃ可愛いー」
などと言いながら、「この年で『めっちゃ』はどうなのか」という問題が、私の頭に去来するのでした。聞いている方が、痛々しい気分になるのではないか、と。

 かといって、
「超可愛いー」
などと言うのも古臭く、「めっちゃ」よりも、さらに痛々しく聞こえることでしょう。

50代ともなると、軽々に流行り言葉を使用するのも、またかつての流行り言葉を延々と使用し続けるのも、危険なプレイ。程度の著しさを表現したいのであれば、「とても」とかせいぜい「すごく」を使用していれば、時流に乗った感じが漂わないのと同様に、痛々しさも漂いません。

きちんとした家庭で育った友人知人を見ていると、やはり決して流行り言葉は使用しないのでした。常にベーシックな言葉遣いをすることによって、真っ当な印象を醸し出しています。

対して、自分の子供や会社の部下など、若者の言葉遣いに影響されやすい、かつての私の母親のような人も、いるものです。その手の人の口から出てくるとちょっと恥ずかしくなる言葉は、今であれば「ヤバい」とか「エモい」といったところでしょうか。


「ヤバい」のボジティブ化と若さの体現


昨今の若者の話を聞いていると、感動しても美味しくても嬉しくてもびっくりしても、とにかく、
「ヤバくなーい?」
「ヤバいヤバい!」
という感じで、「ヤバい」抜きでは会話が成立しなくなっている模様。

その昔は、「危険」とか「不都合」といった
状態、つまりはネガティブな状態を示す言葉であり、さらには反社会的なかほりも漂う言葉であった「ヤバい」。しかしいつの頃からか、「すごい」とか「美味しい」「きれい」といった、称賛に値するポジティブな状態や感情を示す言葉となっていきました。そのように使用されるようになった歴史は案外と古く、私が初めて「ヤバい」がポジティブ言語として使用されるのを聞いたのは2000年代初頭、つまり今から20年近く前のこと。

何のきっかけで「ヤバい」の意味がポジティブ化したのかはわかりませんが、反社会的かほり漂うワードで物事を愛でるという行為が若者に受けるのは、理解できます。あえて品の無い言葉を使用することによって、彼らは、まだ丸まっていない自らの若さを体感しているのではないか。「ヤバい」を連発する若者のボキャブラリーの貧困にいくら大人が目くじらを立てようとも、若いからこそ「ヤバい」の乱用は楽しいのでしょう。

しかし自分と同世代が、美味しいものを食べた時などに、
「ヤバーい!」
と言っているのを聞くと、私はどうも恥ずかしいのです。それは、同世代がミニスカートをはいていたりロングヘアを巻いていたりするのを見た時と、似たような感覚。

最近は、
「年齢なんて関係ないですよね!」
と言う方が多く、「年相応」といった考え方は古臭いものなのだと言われております。したいことをして、着たいものを着ればいいではないか、と。

しかし私は割とクラシックな人間なので、「年相応」という感覚は、嫌いではありません。だからこそ、50代のミニスカートや50代が発する「ヤバい」に対して、「年寄りの冷や水」的な恥ずかしさを感じてしまうのです。

そんな中でも「ヤバい」はまだ意味や使い方がわかるだけマシで、「エモい」となると、もう意味すらよくわかりません。前に、
「で、『エモい』ってどういう意味なわけ?」
と若者に聞いてみたことがあるのですが、いくら説明されても実感として理解することはできなかったのです。

さらに言うなら私はきっと、おたく系の人達の間でだいぶ前から言われていた「萌え」の意味すら、本当には理解していません。「エモい」も「萌え」も、「いいなぁと思う」とか「グッとくる」といった意味なのでしょうが、私は日常生活でそれらの言葉を使いたくなるほどには、言葉が示していることの真髄を掴むことはできていないのでした。

私は、「エモい」という言葉にエモさを感じる世代ではないし、また「萌え」が腑に落ちる性質でもない。このように、理解できない人を排除して、理解できる人達の結束を強める機能を持っているのが、流行り言葉というものなのです。

 
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