どちらのケースにも共通しているのは、航空会社側はマスク着用は「強制ではない」としているにもかかわらず、事実上、マスクを着用していないことを理由に飛行機を降ろされているという点です。ピーチ社のケースは、航空会社側が外部に対して状況説明をしておらず、あくまで乗客側の主張だけですので断定はできませんが、マスクが大きな要因となっていたのはほぼ間違いありません。

機内の座席を一つずつ消毒する清掃作業員。 写真:ロイター/アフロ

冒頭にも述べたように、マスク着用は感染拡大防止について一定の効果があることが分かっていますから、狭い空間である飛行機に搭乗する場合にはマスクを着用すべきだと思います。
一方で、公共交通機関というのは、公の場所や空間をビジネスに使っている業種であり、法によって極めて高い公益性が義務付けられています。法に基づかない理由で乗客の身柄を拘束したり、搭乗を拒否するというのは絶対にあってはならないことです。

 

もし航空会社としてマスク着用を実施しなければ乗客の安全が確保されないと判断するのであれば、明確にマスク着用を搭乗条件とすべきでしょう。

日本社会は、いわゆる「ムラ社会の掟」と「法律」を混同している部分があり、「マナーがなっていない」「人に迷惑をかけた」という理由だけで、個人に対して暴力的な制裁を科すという出来事が当たり前のように起こっています。「迷惑をかけるヤツはケシカラン」というのは一見するとまっとうな意見に聞こえますが、こうした考え方は、一歩間違えれば、自分と異なるマナーや価値観を持っている人は、たとえルールが定められていなくても暴力で排除してよいという理屈になりかねません。

ルールというのは、強制力を伴うものであり、あうんの呼吸や雰囲気、感情で運用してはいけないものです。加えて言うと、そのルールを作った側には、結果について一定の責任が生じます。

航空会社がマスクを強制すれば、それに対する反論などいろいろと面倒な事態も予想されるでしょう。だからといって、表面上は義務ではないと説明し、相手がそれに従わなければ暴力的に排除するというのは、ルールに伴う責任を回避しています。マスク着用が安全上、必要であれば、航空会社は明確に義務化する必要があるでしょうし、それに伴う反論には真摯に対応しなければなりません。

近年、「民度」という言葉を耳にする機会が増えていますが、ルールに伴う責任を社会全体で負うことができるのかという部分にこそ、本当の意味で国民の民度が表われるといってよいのではないでしょうか。

前回記事「菅内閣でも継承のアベノミクスが「実感なき回復」と言われる理由」はこちら>>

 
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