夜の外出先で、妻が出会った男
「お母さん、本当にありがとう。じゃあ行ってくる。みーくん、遅くまで起きてちゃダメだよ」
早希と約束した土曜日。美穂は自分でも驚くほどの行動を起こしていた。
珍しく反発した晩以来、貴之は「湊人に可哀想なことをするな」と怒りをぶつけたり、「君は夜遊びに行くような下品な女じゃないよ」と下手に出るような発言をして妻の外出を阻もうとしたが、美穂の決意は変わらなかった。
長年の友人を馬鹿にされたこともあるけれど、それよりも美穂を強く突き動かしていたのは、「早希に元気な姿を見せなければいけない」という切迫感だ。
そのため美穂はわざわざ湊人を連れて洗足池にある実家に帰り、母に息子を預けて外出するという手段に出たのだ。
「お母さんがあちらに行って湊人を見てても良かったのに……。貴之さん、そんなに忙しいの?」
母の怪訝な視線を振り払うように、美穂は笑顔を作る。湊人を連れて実家に一泊すると告げてから、実は夫には一切の会話を拒まれていた。
「ううん、いいのいいの。みーくんもじじばばに会いたがってたし、パパもゆっくりできるから大丈夫よ」
「まぁ、私もお父さんも嬉しいけど……」
母に背を向け、テッド・ベッカーの花柄のワンピースにムートンコートを羽織る。最後に長年使い続けすっかり手に馴染んだエルメスのピコタンを手に取ると、美穂はニンテンドーDSから目を離さない湊人をぎゅっと抱きしめた。
――ごめんね、少し待ってて。
「ねぇ美穂、何かあったら言いなさいよ?あなた、何だかかなり痩せて……」
「だから、大丈夫だってば!!」
早希に心配されたときと同じく大きな声が出たことにハッとしたが、美穂は感情が昂るのを堪え、急いで実家を出た。
◆
『ごめん、少し遅れます』
『私も。ごめんなさい』
『私も30分以内には着けると思う……』
電車を3本乗り継ぎ、六本木から10分ほど歩いて早希の予約した店に時間通り到着できたとホッとした瞬間、美穂のスマホに一気に通知が並んだ。
『みんな気をつけてね。ごゆっくり^^』
そう返信したものの、通されたテーブル席に一人腰を下ろすと急に心細くなった。
――母親がわざわざ週末の夜に子どもを置いて出かけるのか?――
夫の言葉が蘇る。湊人を出産してから、夜の外出なんて片手で数えるほどしかしていない。今夜は突発的に強行してしまったが、ふと冷静になると、確かにただの我儘だった気がした。
ーーやっぱり今日は早めに帰って表参道に戻ろう。パパに謝らないと……。
しかし約束の時間を20分ほど過ぎても、店には依然として誰も現れなかった。
きっと皆、忙しいのだ。それに美穂と違い、皆はそれぞれ会いたい時にいつでも会える。この夜を特別視して必死になっているのは美穂一人だけなのだ。
手持ち無沙汰にスマホを眺めると、待受画面に設定した湊人の画像と目が合う。目の縁がじんわりと熱くなった。一体自分は、大事な息子を置き去りにして、こんな場所で何をしているのだろう。母親なのに。
「あれ!美穂ちゃん?うわ、超久しぶりだなぁ!!」
「え……?と、透さん……?どうして……?」
突然意外な人物に話しかけられ、美穂は目を丸くした。透は学生時代のサークルの先輩で、おそらく会うのは大学卒業以来だ。
「絵梨香に呼ばれたんだけど……。まぁいつもの遅刻か。美穂ちゃん、元気だった?」
なぜこのとき、元気です、と即座に答えられなかったのだろう。
「いやぁ、すっかりお上品な奥様だね。会えて嬉しいよ」
けれど、そう言って目を細めた彼の笑顔を目にしたとき、美穂は一瞬、すべての痛みから解放されていた。
思いがけない再会に驚く美穂。一方の早希も年下男・隼人とまさかの展開になっていた!
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